礼拝説教 2011年8月14日

「三位一体の神秘」 〜日本基督教団信仰告白による説教(6)〜
 聖書 ヨハネによる福音書20章19〜29  (旧約 創世記1:26〜27)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」




主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。

まことの神

 本日は日本基督教団信仰告白の中の、神に関する項目から恵みを得たいと思います。信仰告白は、聖書に関する記述に続いて、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。」と述べています。
 私たちはなぜ礼拝に集うのでしょうか?‥‥「礼拝に来ると、何となく気持ちが落ち着くから」とか、「讃美歌を歌うと元気が出る」「聖書のことを学びたいから」‥‥と、いろいろな理由を挙げる方もおられます。もちろんそのように、礼拝に来る理由が、自分のプラスになるという、自分の方の側にあるということもあるでしょう。しかし実はそれ以上の理由というものがあります。それは、神さまが私たちを礼拝に招いている、ということです。
 礼拝のプログラムの一番初めは「招詞」で始まります。神の招きの言葉で始まるのです。ちなみに本日は詩編113:1〜3でした。「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されるように。」‥‥「日の昇るところ」、日本は日の昇る国と言われます。日の昇る国から日の沈む国に至るまで、主を賛美せよ、と、主を賛美して礼拝することへと私たちは招かれている。神さまが神の国に招いてくださっている。だから私たちは、それに答えて礼拝するのです。
 礼拝とは神を拝むことです。もっと言えば、礼拝することを通して神様にお会いすることであると言えるでしょう。およそ宗教というものは、そのように神にお会いする、あるいは聖なるものにお会いするために礼拝するのだと言えます。しかしその神とは、いったいどういうお方でしょうか? 「神」と呼ばれるものは、この日本にはそれこそたくさんあります。何でも神になり得ると言われるのが、多神教の国と言われる日本です。私たちが願いをかなえてもらうためだけにお参りするのであれば、どのような神様でも良いでしょう。しかし私は、神さまの声を聞きたかった。神さまの言葉を聞きたかったのです。私が願いを言うのではなく、神さまの言葉を聞きたかったのです。私はどうしたらよいのか、どう生きたらよいのか、そういう言葉です。
 私はかつて死にかけたことがあります。その時私が求めたのは、「学問の神さま」でもなく「商売繁盛の神さま」でもありませんでした。真の神さまです。本当の神さまです。そして聖書は、その真の神さまについて証しをするものでした。

三位一体

 信仰告白の文章は、その「聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたもふ」と続きます。真の神さまが、「唯一の神」であるということはその通りであると言えるでしょう。真実というものは一つ、まことは一つであるというのが道理です。そして何よりも、聖書自身が、神が唯一であることを述べています。
 しかしその唯一の神は、同時に「三位一体」の神であると述べています。私たちはここで、最大の謎の直面するのです。神は唯一であるけれども、単一ではない。それは、父なる神・子なる神・聖霊なる神という三つにいます神であるという。「父」とは天地の造り主である父なる神のことであり、「子」とは、神の御子イエス・キリストのことです。先ほど「讃美歌21」の351番を歌いました。その中に「三つにいましてひとりなる」と歌われていました。これは以前の「讃美歌」では66番で、「三つにいまして一つなる」という言葉でした。神さまだから「ひとり」と言うのはおかしいということです。すなわち、真の神さまは、三つだけれども一つであり、一つであるけれども三つであるということです。
 ここに至って私たちの頭は混乱するのです。なぜなら、「三つ」であるならば「一つ」ではないはずだし、逆に「一つ」であるならば「三つ」ではあり得ない。しかし「三位一体」とは、その両方が成り立つのだと言っているからです。これは算数で言えば、「1+1+1=1」ということです。学校で教わることと違っているのです。父なる神様、子なる神イエス様、聖霊なる神様‥‥と三つなのだけれども、一つの神であるというのです。これはどう考えても分からない。
 昔から三位一体を説明するために、いろいろの仕方が考えられてきました。
@ 例えば、ある人がいました。その一人の人は、会社では社長、家に帰ると父親、そして地域では町内会長をしている‥‥というような類の説明です。しかしこれは、一人三役であると言うことです。1人の神さまが、ある時は父なる神、ある時はイエスさま、ある時は聖霊なる神の役をするということになってしまいます。そうするとこれは、例えば福音書を読むと、イエスさまが父なる神様に祈っておられる場面が出て来ますが、それは芝居をしていたということになってしまいます。
A もう一つの説明の方法は、例えば、Aさん、Bさん、Cさんの3人の人がいる。この3人は、とても仲が良いばかりか、考え方も同じ、支持政党も同じで、まるで1人の人のようだ‥‥というようなタイプの説明です。しかしこれもおかしい。これは明らかに1人ではなく3人です。「唯一の神」ではなくなってしまいます。
 そして「三位一体」とはそのいずれでもないのです。一人三役でもなければ、三人一緒というのでもない。人間の頭の理解を超えているのです。神秘なのです。
 しかし考えてみれば、この無限に広がる大宇宙を造られた神さまのことを、この小さな私たち人間がすべて理解しようということのほうが無理があると言えるのではないでしょうか。私たちは、この宇宙がどのようにしてできたのか、そして宇宙の果てはどうなっているのか、永遠とはどういうことか‥‥何も知りません。にもかかわらずこの宇宙の中に生かされています。
 私は飛行機が苦手です。その理由の一つは、なぜあの思い金属の固まりである飛行機が人を乗せて空を飛ぶことができるのか、説明を聞いてもいまだに理解できません。しかし理解できなくても、私の乗った飛行機も空を飛ぶということもまた事実です。私たちは「三位一体の神」を頭で理解することはできないかもしれない。しかしその三位一体の神が、私たちを愛し、救ってくださったということは事実であり、その神さまを信じていくところに恵みが増し加わるのも事実です。

キリストにおいて啓示

 三位一体とは、何か頭の中で観念的に造り出した考えではありません。信仰告白に「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は」とありますように、イエス・キリストによって明らかにされているということです。すなわち、神が三位一体であるということを言う時には、イエス・キリストが神であるということになります。人としてこられたイエスさまが、同時に神であると信じる時に、そのイエスさまを通して私たちに与えられる聖霊もまた神であるということが言えるのです。そして、父・子・聖霊が三位一体の神であると言えるのです。
 旧約聖書の創世記1章26〜27節を読んでいただきました。それは天地創造の場面です。そして神さまが最後に人間をお造りになった時のことです。神は言われたと書かれています。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。‥‥」
 唯一の神が「我々」とおっしゃっている。おかしなことに思われます。しかしこれは実に、すでに三位一体の神がここで隠されているのです。この時は、唯一の神が「我々」とおっしゃっていることは非常な謎でした。しかし時がくだって、新約聖書にいたってイエスさまが現れて、それが明らかとなったのです。何という壮大な神の御計画でしょうか! そのように、旧約聖書においては、三位一体の神は隠された形で出て来ます。そしてそれがイエスさまによって明らかとなったのです。

復活のキリストとトマス

 三位一体について語り出すならば、一年間をかけて語らなければならないでしょう。それは聖書に証しされている神の神秘だからです。しかしたとえ一年間かけて学んだとしても、それで分かるかと言えばそうではない。先ほど述べた通りです。それを一回で終わらそうというのです。そこできょうは、ヨハネによる福音書の20章のイエスさまの復活のことが書かれている個所を読んでいただきました。
 十字架にかかられ、死んでその日のうちに墓に葬られたイエスさま。それが金曜日のことでした。イエスさまの弟子たちは、イエスさまを十字架に付けた人々に対する恐れと、自らイエスさまを見捨てたことへの罪責感、そして絶望と悲しみという、もうどん底に落ち込んでいました。19節に「ユダヤ人を恐れて、自分たちの居る家の戸に鍵をかけていた」ということが、弟子たちの心境のすべてを物語っていると言えます。まったく、情けないほどに弱く愚かな弟子たちの姿です。
 ところがその弟子たちがひっそりと集まっていた家の真ん中に、復活のイエスさまが現れたのです。しかも弟子たちを責めるためではなかった。祝福するためでした。そして息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃった。聖霊を与えることができるのは、神さまだけです。
 その日、12弟子の一人のトマスはその場にいませんでした。他の弟子たちがトマスに、「私たちは主イエスに会った」というと、トマスは答えました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」。‥‥もしそれが本当によみがえったイエスさまならば、手には十字架の釘跡があいているはずだし、脇腹にはローマ兵が槍で刺した深い傷が開いているはずだ。そこに自分の手を入れてみなければ信じない、とトマスは言ったのです。
 これは、よく「トマスの不信仰」と呼ばれます。しかし私は違うと思う。トマスは、死んだはずのイエスさまがよみがえったという、不思議な現象が信じられないと言ったのではないと思います。そうではなくて、イエスさまのためには命も捨てると言った自分が、イエスさまが十字架にかかる前に、イエスさまを見捨てて逃げてしまった。裏切ってしまった。その大きな罪に悩み、苦しんでいたことのあらわれだと思います。決して赦されない罪を犯した自分。その結果、十字架で死んでしまわれたイエスさま。自らの罪の重さ、罪責感に打ちのめされていたのです。
 それが、他の弟子たちが、イエスさまが復活したという。「覆水盆に返らず」と言いますが、そのようにトマスは、自分の罪が赦されるはずがない。イエスさまがよみがえるなんて、そんなことがあるはずがないと言ったのです。
 ところがまさに最初の日曜日から一週間後の日曜日、弟子たちが鍵をかけて或る家にいたところに、再び復活のイエスさまが現れた。そして今度はトマスに向かって語りかけられました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 それは、十字架の前にご自分を見捨てたトマスを裁く言葉ではありませんでした。反対に、「信じる者になりなさい」と、「信じて良いのだよ。あなたの罪は赦された。だから聖霊を与える」と、愛とゆるしと招きの言葉だったのです。そのイエスさまを前にした時、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。「わたしの神よ」‥‥イエスさまこそ、わたしの神である、イエスさまは神であると告白したのです。

わたしの神

 本来ならば、自分の罪のために神の裁きにあって当然の私たち。しかしトマスに現れた復活の主イエスは、私たちの所にも近づいてくださいます。その時私たちは、そのイエス・キリストという方が、「わたしの神」であると認めることになります。私たちは、そのイエスさまを見たいと思う。もちろん、やがて神の国に召された時には、顔と顔を合わせて見ることができるでしょう。しかしこの地上で直接イエスさまと会った弟子たちはうらやましいと思う。幸いだと思う。しかしイエスさまはおっしゃっています。「見ないのに信じる人は、幸いである」と!
 見ないのに信じる私たちのほうが、見て信じた12弟子よりも幸いであると。まことに感謝なことです。
 このようにして私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪を赦されて神の子としていただき、地上においては聖霊と共に、父なる神の国に向かって希望をもって歩んでいくのです。

(2011年8月14日)


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