礼拝説教 2011年8月7日

「神の言葉に生きる」 〜日本基督教団信仰告白による説教(5)〜
 聖書 マルコによる福音書4章1〜20  (旧約 列王記下19:29〜31)

1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
12 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」




されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

信仰と生活との誤りなき規範なり

 本日は「日本基督教団信仰告白」の聖書に関するところの最後、聖書が「信仰と生活との誤りなき規範なり」と言っている所について学びます。信仰告白は、聖書が神の言葉であり、さらにそのように、私たちの信仰と生活についての規範であると述べています。つまり聖書は、私たちの「信仰」の規範であると言うだけではなく、「生活」の規範であるともいう。生活というと、私たちが毎日朝起きて、食事をし、学校に行き、あるいは仕事に行き、あるいは洗濯や買い物に出かけたり、病院に行ったりする。そういうまさに私たちの日常の暮らしそのものです。
 この世の人々の中には、聖書というものは、なにか高尚な精神世界のことを述べているものだと考える方がいるようです。聖書は、我々凡人の毎日の生活のことなどに関心が無く、雲の上のことを述べているだけだと思う人もいるようです。しかし事実は違います。私たちが息をして食物を食べて生きている、この毎日の私たちの暮らしについて聖書は大きな関心を払い、そしてその生活についても「誤りなき規範」であると述べているのです。

たとえ話とは

 そのことを考える時に、きょうは有名な「たとえ話」を読んでいただきました。イエスさまは「たとえ話」というものをよくなさいました。たとえ話というものは、ある物事を分かり易く説明するために、何か他のことにたとえて言うものです。
 例えば、よく「富山市ってどんな所ですか?」などと聞かれることがあります。それで私は、「町の背景に立山連峰が屏風のように連なっていて、まるでアルプスのふもとに来たみたいな所です」などと答えます。そうすると多くの人は、「へえー、そうですか」と言って感心されます。もちろんスイスのアルプスに皆さんが行ったことがあるわけではないのですが、行ったことがない人でも、そのようにたとえて言うと、なんとなく分かるというふしぎな説明なのです。
 そのように、たとえは、ある物事を知らない人に対して、よく分かるように説明するために用いるものです。イエスさまはそのように「たとえ話」をよくお話になりました。ではイエスさまは何を分かりやすく説明するために、たとえ話をなさったのかということですが、それは今日のたとえ話で言えば、11節にヒントがあります。そこでイエスさまは、「神の国の秘密」と言っておられます。
 すなわちイエスさまのたとえ話というのは、「神の国」「天国」「神さま」のことをお話になっているものです。私たちは誰も神さまに直接お会いしたことがあるわけではない。神の国に行ったことがあるわけでもありません。しかしイエスさまは、私たちの信仰では、神の国から来られた方です。だからそのイエスさまが、神さまや神の国について説明するために、たとえ話をお話になったと言うことができます。

種蒔きのたとえ

 今日のたとえ話は、種蒔きのたとえと呼ばれるものです。これは、神の国を農民が麦の種を蒔くことにたとえておられるものです。たとえ話自体は、極めて分かりやすいものだと思います。私も子供の頃、このたとえ話の紙芝居を見たような記憶があります。そして、イエスさまの地方では、麦の種を蒔くというのはありふれた光景でした。この所の種蒔きは、まず地面を耕すのですが、あまり深く耕さないのだそうです。なぜならイスラエルは乾燥地帯なので、あまり深く耕すと畑が乾燥してしまってダメだそうです。
 それでまず畑をすき鍬で浅く耕す。そしてその後に、人間が手で種をばらまいて歩くそうです。そしてその後に、また土をその上にかけていく。ばらまいていくのですから、中には今日のたとえ話のように、いろいろな所に種が落ちる可能性があるということです。最初に出てくるのは、ある種が「道端」に落ちて、それを鳥が食べてしまったということです。この「道端」というのは、人が歩いて踏み固まった「あぜ道」のような所だと考えられます。
 次に「石だらけで土が少ない所」に落ちた種が登場します。これは実際には、石の上に落ちたというのではないかもしれないそうです。畑の土の下に、石が隠れていたので、石地であることは見た目には分からない。しかし種から根が出ても、石地なのでそれ以上根が生えることができず、渇いて枯れてしまった。
 そしてさらに、「茨の中」に落ちた種が出て来ます。この茨というのも、地上に見える所では、そこに茨があるとは分からない。おそらく茨の根が地面の中に残っていた。しかしその茨からまた芽が出て来て、麦よりも早く伸びて、麦の芽を塞いでしまって、実を結ぶに至らなかった。‥‥しかし他の種は、「良い土地」に落ち、成長して実を結び、一粒の麦の種が30倍、60倍、100倍の実をつけるに至ったというのです。

たとえの解き明かし

 これはいったい、神の国のなんのことについてたとえておられるのか。その時あかしについては、このたとえに限っては説明する必要がありません。なぜなら13節からの所で、イエスさまご自身がたとえについて説明されているからです。福音書の中でイエスさまがなさったたとえ話のうち、イエスさまが自ら解き明かしをなさっている数少ないたとえ話です。ですからそれをお読みいただければ分かります。
 そこでは、麦の種を蒔くというのは、「神の言葉」を蒔くことにたとえているのであるとおっしゃっています。その神の言葉を、人がどのように受け入れるかについてお話になられたのだと明らかにされています。
 私などは、「ああ、自分は茨の中に落ちた種だったなあ」などと思います。かつて教会を離れ、イエスさまも神さまも信じなくなった時がありました。その時私はなぜ教会に行かなくなったのか、それはその時の教会の伝道師につまずいたり、信徒につまずいたりしたのですが、もっと大きな目で見ると、やはり教会や神さまよりも、この世のもののほうが魅力的に見えて、教会を離れたとも言えると思います。

驚き

 さて、私が神学生時代に通ったのは三鷹教会という教会でしたが、その時の牧師は清水恵三先生でした。清水先生は、「イエスさまのたとえ話」という本を出されたほど、イエスさまのたとえ話に関心を示しておられました。そしてその本の中で書かれていることは、イエスさまのたとえ話には、必ず「おや?おかしいぞ?」と思われる点があるというのです。
 それはなぜそういう点があるかと言えば、それは神の国のことをたとえておられるからだというのです。つまり、神さまの考えと、人間の考えは違っている。だからその神さまのことを、人間の地上のことにたとえると、必ず「おかしいぞ?」と思う所が現れてくるというのです。そしてそれがまた、神さまの恵みでもあるというのです。
 では今日のたとえ話では、どこが「おや、おかしいぞ?」という点であるかというと、良い土地に落ちた種が「あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは百倍にもなった」といわれている点です。なぜそれが不思議であるかというと、当時の麦というのは、現代の麦と比べると、まだ品種改良が良くなされていない麦で、生産性が低かった。つまり、一粒の麦の種を蒔いても、その麦から実る実は、10粒から20粒、良くてせいぜい30粒だったというのですね。だから昔はみな貧しかった。
 ところがイエスさまのたとえ話では、一粒の麦から30粒、60粒、100粒にもなったのです。これは予想を超える、考えられない大収穫だというのです。あり得ない話しだそうです。
 しかし実にここに神の恵みが表されている。現実の麦の種は、ふつう10倍〜30倍にしかならない。しかし、神の言葉を受け入れるならば、実に信じられないような多くの実を結ぶのだと。大収穫をもたらすと。ここに神さまの恵みの大きさが表されているのです。

どうしたら実を結ぶ?

 しかしそうすると、いったい私たちはどのようにしたらそのような予想を超える、あり得ないような豊かな実を結ぶことができるのだろうかと思います。つまり、どうしたらそのような実を結ぶことのできる「良い土地」になることができるのだろう?と。そうするとそれは20節にあるように、「御言葉を聞いて受け入れる」ことによるのだと言われています。これはたいへんすばらしいことだと思います。なぜならここでイエスさまは、信じられないような多くの実を豊かに結ぶ人とは、「この世の立派な人」だとおっしゃっているのではないからです。「頭の良い人である」ともおっしゃっておられません。「才能のある人」だともおっしゃっておられません。イエスさまにとっては、そのようなことはどうでも良いのです。ここで想像を超える豊かな実を結ぶ人とは、「御言葉を聞いて受け入れる」人であると言われているのです!
 そうすると、たしかに御言葉を聞いても受け入れな人がいます。あるいは、最初少し聖書を読んだり、教会に通ったりするけれども、そのうち辞めてしまうという人もいます。そしてかつての私のように、この世のことによって目が塞がれて、教会に行かなくなる人もいます。しかし、あり得ないような豊かな実を結ぶ「良い土地」である人とは、実に聖書の御言葉を「聞いて受け入れる人たち」であるとおっしゃるのです。つまり今わたしたちが聞いて受け入れるのであれば、やがて実を結ぶようになると。30〜100倍の、もうそれは想像を超えるような実を結ぶのだと約束なさっておられるのです。
 「私はどうせ悪い土地だ。どうせだめた」というのではありません。御言葉を「聞いて受けれる」ということによって、予想を超える大収穫がもたらされるというのです。また、「誰それさんは良い土地だが、自分は悪い土地だ」と決まっているのでもありません。今わたしたちが、御言葉を聞いて受け入れるのであれば、それは全く当たり前のようにして御言葉の種が芽を出し成長して、豊かな実を結ぶことになると約束されているのです。この私が、あり得ないことにそのような実を結ぶのだと。すばらしい約束です。

イエス御自身を

 さて、御言葉を受け入れるとは、ただ聖書の言葉を自分の「座右の銘」のように、つまり人生訓として、自分の好きな言葉として生きていく、ということにとどまりません。というのは、この「神の言葉」(14節)というのは、単に言語のことを指すばかりではないのです。それはヨハネによる福音書の1章を見ていただければよいのですが、(ヨハネ1:14)「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と書かれていることです。すなわち、ここで聖書は、イエスさまは神の言葉そのものであると言っています。イエスさまとは、神さまの言葉であると。
 そうすると、きょうの20節でイエスさまが解き明かしておられる、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」の「御言葉を聞いて受け入れる」ということは、聖書の御言葉を聞いて、イエスさまご自身を受け入れることであるとも言えるのです。イエスさまご自身を受け入れるというのは、初めての方には何のことか良く分からないと思いますが、それはイエスさまを信じて聖霊をいただくということです。そしてまた、聖霊によって私たちと共にいて下さるイエスさまと共に前に進んで生きて行くと言うことでもあります。
 例えば、私たちは毎日を生きていく時に、どのようにして今日という一日を生きていくでしょうか?‥‥考えてみれば、毎日の生活というのは楽しいことばかりが予想されるのではありません。難しいことが待ち構えているかもしれない。あるいは、トラブルを解決しなければならないかもしれません。あるいは、自分の苦手な人と会う予定がある場合もあることでしょう。できれば逃げ出したいような予定が入っているかもしれません。
 私も、そのような時は、イエスさまを信じる前は憂うつでした。嫌なことは避けたいものです。しかしイエスさまを信じてから、ちょっと変わってきました。それは何が変わったのかというと、自分が強くなったのではありません。相変わらず自分は弱いままです。しかし、イエスさまが聖霊によって生きて、共に歩んでくださることを知ったのです。
 ですから、難しい出来事が予定されている時は、「イエスさま、一緒に行って下さい」と心の中で祈ります。すると前に進んでいけます。また、苦手な人と会わなければならない時も、「イエスさま、一緒に行って下さい。私の前を歩いて下さい」と心の中で祈るのです。そうすると実際にイエスさまが共にいて下さる。そして、難しい出来事を解決して下さるのです。苦手な人と会う時も、それをかえって楽しい一時へと変えてくださったりして下さるのです。
 こうして、神の言葉であるイエスさまと共に、平安に毎日の生活を歩んでいくことができる。感謝なことです。

(2011年8月7日)


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