礼拝説教 2011年7月17日

「比類なき書物」 〜日本基督教団信仰告白による説教(2)〜
 聖書 ヨハネによる福音書5章39   (旧約 創世記12:1〜4)

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。




日本基督教団信仰告白

 今わたしたちが学んでいる「日本基督教団信仰告白」は、1954年の教団総会において制定されました。もともと日本基督教団とは、日本がアメリカと戦争を開始した昭和16年に日本のプロテスタントの諸教派が合同してできた団体です。メソジスト教会、長老派の教会、会衆派の教会、バプテスト派の教会、ホーリネス教会など、当時日本にあった30余派のプロテスタントの教派が集まってできました。そして戦後になって、この信仰告白を制定したものです。カトリック教会のような教会では、ローマ法王を頂点としたピラミッド式の組織によって教会の一致が保たれていますが、日本基督教団には、法王や監督がいません。それで、このような信仰告白の言葉によって、一致を保っているのです。
 さて、本日からこの信仰告白の中身の部分に入ります。つまり、私たちの教会は何を信じて告白するかということです。そしてその最初が、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の正典なり」‥‥という文章です。すなわち、まず最初に「聖書」についての記述で始まっているのです。このことは、私たちの信仰が何に立脚しているかを明らかにしています。私たちは「神さま」を信じるという。しかし、ではその神さまとはどんな神さまか、神社の神さまとはどこが違うのか、ということが明らかにされなければなりません。その時に、まず私たちの神さまとは、聖書に書かれている神さまですよ、ということを明らかにしているのです。

旧新約聖書

 そして信仰告白は、その聖書とは「旧新約聖書」のことであると述べています。旧約聖書だけでもなく、新約聖書だけでもない。その両方ですよということをはっきりさせています。
 さて、旧約聖書と新約聖書ですが、新約聖書のほうが一般には親しまれていると言えるでしょう。新約聖書は、イエスさまがこの世に来られてからのことが書かれています。私が子供の頃、教会学校に持っていく聖書といえば新約聖書でした。また、子供にプレゼントする聖書といえば、これも新約聖書だけのものでした。どうしてかと言われても、私もその理由は分からないのですが、たぶん旧約聖書付の聖書だとたいへん厚みがあって重いと言うこともあったのではないか。また、旧約聖書には、分かりにくい個所も多いし、イエスさまが出てこないから、子供には無くてもよいと考えられていたのかも知れません。
 たしかに、旧約聖書には、創世記のように天地創造から始まって、ノアの箱舟あり、ヨセフ物語あり、そして出エジプト記の最初のほうのモーセに率いられたイスラエルの民が紅海を渡っていくという場面ありで、スリルとサスペンスに飛んだ個所もあるのですが、一方ではレビ記や預言書などのように、なにか退屈で分かりにくいと思われるような個所も多くあります。それで旧約聖書を通読しようとした人が、やがてその退屈な記述に飽き飽きして止めてしまうということもあるようです。
 しかし、三浦綾子さんの『旧約聖書入門』という本にこんなことが書かれています。三浦綾子さんは太陽や月や星を見ていて、しばしば言い様のない感動を覚えるそうです。それは、「ああ、イエスさまも、私が今見ているこの太陽をご覧になっていられたのだ。‥‥」というように思うからだそうです。その感情は、親と子、夫と妻、あるいは恋人同士が遠く離れていて、同じ月を仰ぎ、同じ星を眺めているような心境だと書いておられました。三浦綾子さんの信仰が表れていた書き方だと思います。
 そしてさらに、洗礼を受けた当時、ルカ福音書の4章を読んでいて似たような感動を覚えたと言います。(ルカ4:16〜17)「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された」‥‥その時三浦さんは、「ああ、イエスさまも旧約聖書を読まれたのだ!」と不意に電気にでも打たれたような気がしたそうです。そうして旧約聖書に親しみを持って読むようになったそうです。なるほど、たしかに私たちが手にしている旧約聖書は、イエスさまも読まれた旧約聖書であるのであり、そう思うと不思議な感じがします。すばらしいことだと思います。
 その旧約聖書ですが、しかし読んでいくとなかなか理解しがたいところがある。私の最初の任地である奥能登の小さな教会にいた時、70歳を過ぎた御婦人が洗礼を受けることを考え始めました。そうして旧約聖書から読み始めました。するとある日怒って私に言うのですね。何を怒っているかというと、旧約聖書に登場するイスラエルのソロモン王のことについて怒っているのです。曰く、「聖書にはソロモン王には妻が七百人、そばめが三百人いたと書いてある。なんというけしからん書物か!」というわけです。
 私は彼女に、ソロモン王のそのことは、決して神さまが良しとされたのではなく、罪であることを説明しました。そして、聖書は人間はみな罪人であると書いてあること、それゆえ完全に正しい人間など一人も登場しないことを説明しました。それゆえ、人間には救いが必要であることを聖書は描こうとしているのだと説明しました。そしてようやく分かってくれたのでした。

聖書は何を書いているのか?

 たしかに、聖書は何を書こうとしているのか、すぐには分からないように思えます。とくに旧約聖書の人間の泥沼の罪の歴史を読んでいると、いいかげん嫌になってしまいたくなります。では聖書は何を書いているのか?‥‥そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられるのが、先ほど読んでいただいた聖書、ヨハネによる福音書5章39節です。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
 この場合の「聖書」というのは旧約聖書のことです。新約聖書はもちろんイエスさまの救いについて書いているのですが、旧約聖書もまたイエスさまを証ししている、証言しているのであるとおっしゃっています。聖書とはそういう書物であると。

永遠の命

 その前に、5章39節の前半の部分を見てみましょう。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。」この言葉は、イエスさまのことを快く思わないユダヤ人、すなわちユダヤ人の律法学者やファリサイ派の人々に対しておっしゃった言葉です。この中に「聖書を研究している」という言葉があります。研究しているというと何か大げさな感じがしますが、ようするに「聖書を調べている」という言葉です。しかしギリシャ語の文法でいうと、この所は「聖書を調べている」と、今あなたたちがしている現状について述べているというほかに、「聖書を調べなさい」という命令の文にも訳すことができるのです。この場合39節全体は、「聖書の中に永遠の命があると思っているのなら聖書を調べなさい。それは私について証しをしているのだ」という文章になります。
 どちらの訳でも良いのですが、ここでまずイエスさまは聖書の中に永遠の命があると言っておられるのかどうかということです。イエスさまはここで、聖書の中に永遠の命があると言っておられるのです。私たちが手にしている新共同訳聖書では、「ところが」と訳していますが、「そして」と訳すのが普通です。すなわち、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。そして、聖書は私について証しをしているのだ」となります。

イエスを証し

 すなわち、聖書の中には永遠の命がある。そしてその永遠の命とは、イエスさまのことなのであり、それを聖書は証言しているのだということです。だからもう一度調べてみなさい、あるいは、調べているのならそのことを悟りなさい、ということです。だから次の40節で、「それなのに、あなたたちは、命を得るために私の所へ来ようとしない」とおっしゃっておられるのです。この「命」とは永遠の命であり、その永遠の命はイエスさまにあるのだ、というのです。
 「命を得るために私の所へ来ようとしない」と言っておられる。言い換えれば、イエスさまご自身が永遠の命であるばかりではなく、イエスさまの所へ行くことによって永遠の命を得ることができるというのです。そしてそのことを証ししているのが聖書であると! 創世記第3章、エデンの園で人間が罪を犯したことによって失われた命が、イエスさまにいたって回復することを示しておられるのです。そこに聖書の一貫したテーマがあるというのです。
 聖書とはそういう書物であるとイエスさまはおっしゃっておられるのです。イエスさまはこの時、このことをもう何度も何度も聖書を読んでいた人々に対しておっしゃったのです。しかし彼らはそのことに目が開かれていなかった。気がつかなかったのです。しかし聖書とは、そのような永遠の命であるイエスさまを証しする書物であるという。私たちの人生に対する答えが、ここにあるとおっしゃるのです。まさに比類なき書物です。

旧約聖書の中のキリスト

 たしかに旧約聖書は、イエス・キリストがこの世に来られる以前に書かれたものであり、イエスさまの「イ」の字もでてきません。しかしイエスさまによれば、旧約聖書は、イエス・キリストを予言しているものです。いや、そのために書かれた書物であるということです。本日はヨハネ福音書の他に、旧約聖書の創世記12章の最初の所を読んでいただきました。これは、祈祷会では学んだばかりの個所です。この12章でアブラハム(この時点では「アブラム」)という一人の人が神さまから選ばれて、罪人である人間を神さまが救われる歴史の本編が始まります。
 アブラムが75歳の時、神さまはアブラムに語りかけられました。そして住みなれた土地を離れて、神さまが示す土地に向かって行きなさいとお命じになりました。そしてその神さまの言葉に従ってアブラムは出発しました。ここからイスラエルの歴史が始まるわけです。そのアブラムに語りかけられた神さまの約束の言葉ですが、神さまはアブラムを祝福されましたが、それはなぜ祝福されたかということです。それは、「祝福の源」となるようにアブラムを祝福するのです。「源」というのは、そこから泉が湧き、川となって流れていくようなもので、つまりアブラムから神さまの祝福が流れ出て、世界に及ぶようになるということなのです。
 そして3節の最後を見ますと、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」‥‥つまり世界中の民が、アブラムによって祝福に入る、アブラハムの子孫によって救われるということが約束されています。このアブラハムの子孫とは誰か?‥‥アブラハムの子孫と言えばイスラエル人、ユダヤ人でありますが、これは実はアブラハムの子孫としてお生まれになったイエスさまのことを指していると教会は信じてきました。だから新約聖書の一番最初のマタイによる福音書の第1章は、アブラハムの子孫としてお生まれになったイエスさまの系図で始まっているのです。
 このように、一見イエスさまの名前が出てこないように思われる旧約聖書ですが、実はイエスさまのことを預言しているということです。
 たとえば、旧約聖書の中でも無味乾燥の代表と見られるレビ記。たしかにレビ記は、今日の私たちには何の関係もないような律法が記されているのですが、私はかつて前任地の教会の祈祷会でレビ記の勉強をしながら、レビ記の中のそこかしこにキリストの預言が隠されているのを発見し、大いに喜んだのを思い出します。一見現在の私たちとあまり関係ないことも多く書かれているように思われる旧約聖書。しかしその中に隠されているキリストを発見することは、聖書を読む楽しみであり、喜びの一つです。
 そのように旧約聖書はキリストの預言で満ちています。イエスさまのおっしゃった通りです。旧新約聖書は、イエス・キリストを証言しています。それはすなわち、永遠の命を指し示しているのです。それが聖書の示す究極の救いです。そこに私たちを導いて下さるのです。私たちの人生に対する答えがあるというのです。

(2011年7月17日)


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