礼拝説教 2011年7月10日

「信じて告白する」 〜日本基督教団信仰告白による説教(1)〜
 聖書 ローマの信徒への手紙10章9〜10   (旧約 詩編100編)

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。




なぜ信仰告白か

 本日から「日本基督教団信仰告白」を学んでまいりたいと思います。信仰告白というものは、その名の通り、私たちの信仰を告白する文章です。私たちの教会では毎月第1聖日にこの信仰告白の文章を唱和しております。また、洗礼の誓約の時にも、この信仰告白の文章が読まれます。そして牧師が受洗志願者に対して次のように問いかけます。「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言いあらわされた信仰を告白しますか?」
 それに対して「告白します」と答えると、洗礼が授けられるわけです。また受けた洗礼が、幼児洗礼である場合は、物心ついて自らの意志で信仰を告白できる年齢になったら「信仰告白式」に臨むことになります。そして今申し上げたのと同様の問いと答えをなして、陪餐会員であることが宣言されることになります。
 私は両親がクリスチャンだったので3歳の時に幼児洗礼を受けました。キリスト教会がすべて幼児洗礼を授けるわけではありません。中にはバプテスト教会のように幼児洗礼を授けない教派もありますが、私の両親はメソジスト教会の流れを汲む教会に通っていたので幼児洗礼を受けさせたのです。そうして順調に信仰の道をたどったかというとそうではなく、大学に行ってから教会から離れてしまいました。神さまを信じられなくなったのです。そして就職して社会人になりましたが、身体を壊して郷里に戻ることになりました。そうしてからふしぎな導きがあって、再び教会に通うようになりました。同時に、神を信じざるをえないような出来事がありました。そうしてやがて信仰告白をしたいと思うようになりました。
 なぜ信仰告白をしたいと思ったのか。信仰告白をしようがしまいが、自分で神さまを信じていれば良いではないかという考え方もあるでしょう。しかし私は信仰告白をしたいと思いました。それはなぜかというと、その最大の理由は「聖餐式」を受けたいと思ったからです。日本基督教団の規則では、幼児洗礼を受けただけでは「未陪餐会員」であって聖餐式を受けることができない。信仰告白式を済ませなければ聖餐式を受けることができないからです。
 そうすると、この逗子教会では聖餐式のパンとぶどうジュースは役員さんが会衆の席まで配ってくれますが、当時私が通っていた教会はメソジストの流れが生きていたので、聖餐式を受けるクリスチャンが聖壇の前まで出て行って、ひざまずいてパンとぶどう酒をいただく形でした。そうすると、聖餐式のパンとぶどう酒が配られる時になると、みんな前に出て行ってしまうのです。そうして、会衆席には、まだ洗礼を受けていない人か、幼児洗礼を受けているが信仰告白をしていない人が残されることになる。小さな教会だったので、たいていは私が一人残されることになるのです。
 そうして聖壇の所に出て行った人たちは、牧師が「これはキリストの体」であると宣言するパンをいただき、「これはキリストの血」であると宣言するぶどう酒をありがたそうにいただいている。‥‥「私もそれをいただきたい!」という思いになりました。それで信仰告白をする決心がついたのです。
 そのように、信仰告白をするということは、教会というキリストの体につながることです。そしてたしかにキリストにつながっていることを確認するのが、聖餐式です。

信じかつ告白す

 さて、きょう学ぶのは、日本基督教団信仰告白の最初の一文です。「我らは信じかつ告白す」。ここで注目したいのは、「我らは信じる」ではないということです。「信じかつ告白す」と述べていることです。すなわち、信じることだけではなく、告白することを同時に言っているのです。だから「信仰告白」と呼ぶわけです。告白するということは、心の中で思っているだけではダメで、口に出して言うということです。
 そのことについて先ほど読んでいただいた聖書、ローマ書10章10節でははっきりと述べています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
 そうすると、「まず信じるだけでたいへんなのに、告白するというと、自分でも本当に信じているかどうか自信がない」と思うことでしょう。たしかに、お手元の「日本基督教団信仰告白」を初めて目にされた方は、何かすごく難しいことが書かれていると思われることでしょう。いや、初心者の方だけではありません。長い間信仰生活を送ってきた方でも、そこに書かれていることについて質問されたら、答えることができないことが多くあるでしょう。
 例えば、「三位一体」とあるが、これは何のことか?‥‥と尋ねられたら、きちんと答えられるでしょうか? その他にも、「福音の真理」とは何か、「啓示」とはなにか、「贖い」とは、「犠牲」とは何か?‥‥「いや、そもそも神さまってどんな方?」と考えていったら、いまだによく分かっていないという方も多いことでしょう。あるいは、ここに書かれていることを本当に一字一句100%信じることができるか?と問われたら、自信がないのではないでしょうか。「実はよく分からない」という方も多いことでしょう。
 教会に来始めてしばらく通っておられる方が、洗礼を受けるということを考えるようになります。そういう方から一番多く受ける質問の一つが、「洗礼を受けたいのですが、まだよく聖書が分かっていません。そんな私でも洗礼を受けてよいのでしょうか?」というような質問です。
 それに対して私は、次のように答えてきました。‥‥「例えば、好きな人に結婚を申し込むということを考えてみましょう。『まだ相手のことを全部分かっていないから結婚できない』ということになると、この世のすべての人は結婚できなくなるでしょう。なぜなら、その人のことを全部分かってからということになると、一生付き合ってみないとその人のすべては分からないからです。だから結婚というのは、相手のことが全部分からないまま結婚することになります。ではなぜ相手のことを十分知らなくても結婚できるのか?それは、相手を信じるから結婚できるのではないでしょうか。神さまについても同じです。」
 もし神さまのことを全部分かってから洗礼を受けるというのなら、洗礼を受けることのできる人は一人もいなくなるでしょう。なぜなら、神さまは宇宙を造られた偉大なる方で、私たち小さな人間は一生かかっても知り尽くすことはできないからです。では神さまのことが全部分からなくても洗礼を受けることができるのはなぜか?‥‥それは、神さまのことを信じて洗礼を受けることができるのです。細かいことはよく分からないが、神さまとイエスさまを信じれば大丈夫だ、と信じるのです。信頼するのです。それが信じるということです。
 洗礼を志願すると、受洗準備講座というものに出席していただきます。そしてそれが済むと、役員会での受洗試問会となります。受洗試問会というものは、志願者だけではなく役員も緊張するものです。以前牧していた教会で、ある時、小学生の女の子が家族と一緒に洗礼を志願しました。小学生も高学年になったら通常の洗礼を受けます。その受洗試問会で、役員が質問しました。「なぜ洗礼を受けたいと思いましたか?」
 するとその子は「イエスさまのことが好きだから」と答えました。私たちは大変感動いたしました。それは全面的にイエスさまを信頼していることが見て取れたからです。もちろん、小学生であってもちゃんと受洗準備の勉強会を何回もいたしました。その勉強会は、もしかしたら学校の授業よりも難しかったかも知れません。しかし彼女は、すべてを理解できかなかったと思いますが、イエスさまが好きで、イエスさまのことを信じて洗礼を受けたのです。
 私たちは、神さま、イエスさまについて、そして聖書についてすべてを頭で理解することはできないかも知れない。しかし、イエスさまを信じるのです。そして告白する。
 告白する、ということも結婚にたとえることができます。いくら相手のことが好きでも、告白しなければ伝わりません。思っているだけでは結婚になりません。ちゃんと告白しなければならないのです。だからこの世の人間同士の結婚でも、信じて告白するのです。神さまに対しても同じです。
 しかしそのように言うと、「神さまは全能だから、口で言わなくても心で思っていれば、お分かりになるではないか?」と思われるかも知れません。たしかに、神さまがその人の心をお分かりになっているという点では、その通りでしょう。イエスさまがザアカイに会う前からザアカイのことをご存知であり、ナタナエルに会う前からナタナエルのことをご存知であったように。
 しかし今日の聖書が、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言うのはなぜか。それは、私たちのために聖書はそう述べていると言えます。実際、誰の心もご存知であるイエスさまは、しかしその人が口に出して言うように促されました。イエスさまが弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方に行った時、「それではあなたがたは私を何者だというのか?」と尋ねられました。するとペトロが、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と答えました(マタイ16:15)。するとイエスさまは、ペトロのことを「幸いだ」とおっしゃり、祝福されました。そしてその信仰告白の上にイエスさまの教会を建てるとおっしゃいました。陰府の力も対抗できないと約束されました。そして天国の鍵を授けられたのです。
 そのように、イエスさまは、私たちが信仰を口で告白することを祝福されるのです。それは、私たちに口を授けたのは神さまであるからです。神さまが私たちに口を授け、体を授けて、言葉を言うことができるようにされたのは、私たちが神さまを信じる言葉を言うようになるためです。むかし神さまは、モーセに対して、「いったい誰が人間に口を与えたのか」(出エジプト4:11)とおっしゃいました。

賛美と信仰

 私たちは毎日この口で、どういう言葉を言うのでしょうか。自分でも文句や不平不満、あるいは心配ばかりが多いように思います。しかし神さまは、私たちがそのような不平不満や心配を言うために口を与えたのではありません。
 ローマ書と共に詩篇100編を読んでいただきました。そこには神さまの前に進み出る時にはどうしたらよいかということが書かれています。2節に「喜び歌って御前に進み出よ」と書かれています。4節には、「感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ」と書かれています。「心の中で黙って」とは書いてありません。賛美の歌を歌って主の庭に入りなさい、と。教会の礼拝で讃美歌を何曲も歌うのはそのためです。心を込めて賛美を歌って、主の門を入り、主にお会いすることができるのです。
 私たちはそのように、口で言い表すことが勧められています。不安になった時でも、「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい」と小さな声で良いので、口に出して祈るとよいでしょう。主のお守りがあるのを体験できるでしょう。

共に告白する

 また「告白する」という言葉は、ギリシャ語ではもともと「一緒に言う」という意味があります。つまり、自分1人だけが言うのではない。教会と共に言うのです。だから信仰告白でも、「我らは」と最初に言っている。私たちは、二千年続く教会の聖徒たちと共に、告白するのです。キリストの教会の一員として安心して告白する。
 そこに祝福があります。陰府の力も、すなわち死の力も、キリストへの信仰を告白する私たちに打ち勝つことはできません。天国への門が開かれるのです。

(2011年7月10日)


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