礼拝説教 2011年5月15日

「報いられる祈り」 〜主の祈り・説教(1)〜
 聖書 マタイによる福音書6章5〜8

5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。




主の祈り

 この前、マタイによる福音書の最後の所を読みました。そして今日またマタイによる福音書を読んでいます。「またマタイか?」と思われる方もいるかも知れません。実は、今日から「主の祈り」について学んでいきたいと思い、この個所から取り上げました。
 「三要文」というものがあります。キリスト教会がずっと大切にしてきた文章です。すなわち、「主の祈り」と「使徒信条」と「十戒」です。これら三つの文章は、教会の礼拝の中で読まれ、また重んじてこられたものです。この三要文について、アドベントの前まで、学んでいきたいと思います。そして最初に「主の祈り」について恵みを分かち合いたいと思います。今日読んでいただいた個所は、その「主の祈り」の前書きのような個所です。

個人の祈り

 ここでイエスさまは、私たち個人の祈りについて教えておられます。6節を読むと、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とイエスさまはおっしゃっています。祈りを人に見てもらおうと思って、とありますが、これはいったい何のことか?と思われる方も多いことでしょう。なぜなら、普通の日本人の感覚では、人に見てもらおうと思って祈る人というのが理解できないからです。仏壇や神棚に向かって手を合わせるにしても、人にその姿を見てもらおうと思って祈るという人は、珍しいことでしょう。
 しかしそれでも、総理大臣などの大臣が、今年は○○神社に参拝したかしないかが問題になるという現象を見ると、それらの大臣や国会議員さんは、もしかしたらマスコミや国民の目を意識して、つまり人に見てもらおうと思って参拝している方もおられるかも知れないのです。そうするとその祈りや礼拝行為は、政治的なパフォーマンスということになってしまいかねません。そのように考えると、6節でおっしゃっていることも分かってくるでしょう。
 「偽善者」というたいへん厳しい言葉をイエスさまは使っておられますが、「偽善者」というギリシャ語は、「役者」という意味があります。つまり演じているんです。「立派な宗教家」とか「熱心な信者」と他人から言われたいがためにです。その時、神様のことはどうでも良くなってしまいます。そして自分の名声が高まることを願うということになる。なのに敬虔に神を信じている振りをする。だから「偽善者」「役者」と呼ばれているのです。
 6節冒頭の「祈る時にも」とあります。「も」というのは、前の段落1〜5節と続いているからです。そこでは、他人に見てもらおうとして善行をなす、貧しい人に施しをする、ということについて述べられています。それは既に報いを受けてしまっているのだ、とイエスさまはおっしゃっています。そしてイエスさまは、「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とおっしゃいました。実際に、右手のすることを左手に知らせないというのは、ほとんど不可能ではないかと思いますが、言わばそれぐらい人知れず人助けをしなさいということです。そうすれば、他の人は分かってくれないかも知れないが、神様が見ておられて、ちゃんと報いて下さると。
 その続きとして、今日の祈りについて述べられています。祈りもそうだと。もちろんこれは、礼拝での祈りや、祈祷会で皆で祈る祈りのことを言っておられるのではありません。なぜなら、皆で集まって祈る祈りについては、次のようにおっしゃっておられるからです。(マタイ18-19)「どんな願い事であれ、あなたがたのうちのふたりが地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
 また、使徒言行録を見ると、皆で集まって祈っているところに聖霊が降り、ペンテコステの出来事が起きました。ですから、主は、クリスチャンが皆で集まって祈る祈りも喜んでくださるのです。しかし今日の個所は、1人で祈る祈り、神様と一対一になって祈る祈りについて教えておられるのです。

くどくど祈る

 さてこの中でイエスさまは、7節で「異邦人のようにくどくど祈ってはならない」と教えておられます。これはいったいどういうことでしょうか?「くどくど祈ってはならない」というのはどういうことでしょうか。
 まず、「くどくど祈ってはならない」というのは「同じことを繰り返し祈ってはならない」ということでしょうか?‥‥しかしそれは違います。なぜなら、イエスさまご自身が同じことを何回も繰り返して祈られたからです。例えば、「ゲッセマネの祈り」を見れば分かります。イエスさまは神様に向かって同じことを繰り返し祈られました。また、ルカによる福音書18章を見ても、イエスさまは、失望しないで同じことを繰り返して神様にお願いして祈るように励まされました。そのように、「くどくど祈ってはならない」ということは「同じことを何度も繰り返して祈ってはならない」ということではないことが分かります。
 では「くどくどと祈ってはならない」ということは、「長い時間祈ってはならない」ということでしょうか?‥‥これも違います。なぜなら、イエスさまは常に長い時間を取って祈られたからです。先ほどのゲッセマネの祈りも、3時間ほど祈られたことが分かります。他にも、(ルカ5:16)「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」とあり、また(同6:12)「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」、さらに(同9:18)「イエスがひとりで祈っておられたとき」‥‥などとあります。そのように、イエスさまはしばしば非常に長い時間、神様に祈られたことが分かります。
 さてそうすると、「異邦人のようにくどくど祈ってはならない」とはどういうことなのか疑問に思われます。するとこのイエスさまの言葉は、「異邦人のように」という言葉がくっついていることに注意しなければなりません。「異邦人」とは、真の神さまを信じない人たちのことです。
 真の神さまを信じない人たちと、真の神さまを信じる人たちでは、何が違うかといえば、祈る対象が違います。異邦人は、何に向かって祈るかと言えば、偶像の神々です。あるいは、太陽や月や星、山や海に向かって祈ります。神様ではないものに向かって祈る。そしてイエスさまがおっしゃるには、「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」と。
 それに対して、私たちが真の神さまを知っているとすれば、私たちの祈りはなぜ聞かれるのでしょうか?‥‥それは私たちの言葉数が多いからと言って聞かれるというよりも、イエス・キリストの名によって祈る祈りだから聞かれるのでしょう。私たちは罪人ですから、私たちが祈っても、本当は神様が受け入れてくださらないのです。しかし、イエスさまが私たちの罪を清めるために十字架にかかってくださり、祈りを捨てて神の裁きを受けて下さったので、そのイエスさまの名によって祈る祈りが、初めて神さまに受け入れられるようになったのです。
 イエスさまがヨハネ福音書で次のように言っておられます。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」(ヨハネ14:13)
 すなわち、「くどくど祈る」というのは、祈り方ということではなく、イエス・キリストの名によって祈るかどうかであることが分かります。わたしが正しくて立派だから、あるいはわたしが身を削って祈ったから聞かれるというのではなく、神の御子イエスさまがわたしの代わりに十字架にかかって下さったので、聞かれるのです。
 したがって、イエスの名によらない祈りは、くどくどした祈りであるということになります。これは私たちにとって決して他人事ではありません。私たちも、イエスさまの十字架の贖いを本当に信じないで祈るならば、それはくどくどした祈りなのです。

密室の祈り

 1人になって、隠れたところにおられる神様に祈る。これを教会では「密室の祈り」と呼びます。わたしが「密室の祈り」という言葉を初めて聞いたのは、「チイロバ牧師」こと、故榎本保郎牧師の本や説教テープを通してでした。榎本先生は、「朝の15分」ということを奨励されました。朝の15分とは、毎朝聖書を1章読んで5分。次に、霊的な書物を5分間読む。そして最後の5分間で神に祈る。こうして毎朝15分間をまず神さまに献げる‥‥というものでした。
 わたしはそれを聞いて驚きました。なぜなら、それまでの私の祈りというものは、食前の祈りだけで、あとは「困った時の神頼み」で、自分が困った時だけ熱心に祈るというものだったからです。それを、毎朝15分間を神さまに献げて祈る、と聞いた時、最初は何を祈ればよいのか分からないほどでした。
 しかしそれはまだ序の口でした。そんな私がやがて献身して、神学校に行きました。私は伝道者を志す者として、何故日本の伝道がなかなか前進しないのか、ということに関心を持つようになりました。日本の教会はいつまで経ってもなかなか多くの人が礼拝するために来るようにならない。ところがお隣の韓国では、前後ものすごい勢いでクリスチャンの数が増え、教会が成長していきました。それでその理由は何かということを知りたいと思うようになりました。そしてある時、世界最大の教会である韓国のヨイド純福音教会のチョー・ヨンギ牧師が日本武道館で、日本の伝道のための「宣教大会」というものを持ったことがありました。私は、韓国の教会が大きく成長していることの理由が知りたくて、行ってみました。そこでチョー牧師が祈りについて述べたことに驚かされました。というのは、チョー先生は毎日2〜3時間、多い時は5時間祈ると言ったからです。私は、韓国の教会が戦後大きく成長していった大きな理由の一つに、その祈りがあると思いました。
 イエスさまはまさにそのように祈られました。1人になって神様に祈る。それに対して神様が報いて下さると、イエスさまは約束しておられます。それはいったいどのような報いなのか?‥‥それは、お金持ちになれる、ということではないかもしれません。また、有名人になれる、という意味でもないかも知れません。
 ではどのような「報い」なのでしょうか?‥‥それは、神様が分かってくるという恵みです。神様ご自身が身近になるという報いです。神さまの愛が見えてくるのです。神さまが私たちと共におられて、私たちに必要な助けと導きを与えて下さることが分かるようになるのです。神様を見出すことができるようになるのです。その恵みは、外に代え難いほどの喜びとなります。
 密室の祈りの時間を大切にしたいものです。

(2011年5月15日)


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