礼拝説教 2011年5月8日

「世界のキリスト」
 聖書 マタイによる福音書28章16〜20

16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」




主イエスを拝んだ

 マタイによる福音書に従って、イエスさまの受難の場面から続いて読み進めてきましたが、きょうの所がそのマタイによる福音書の最後の所です。
 場面は十字架と復活の舞台のエルサレムから、一挙に北のほうのガリラヤに飛びます。そして「11人の弟子たち」、すなわちイエスさまの使徒たちがイエスさまが指示しておかれた山に登ったというところです。山に登った弟子たちは、復活のイエスさまにお会いして「ひれ伏した」と書かれています。この「ひれ伏した」という言葉は、拝んだ、礼拝したという意味の言葉です。そして聖書ではもちろん、礼拝の対象は神様だけですから、ここではイエスさまを神様として礼拝したということになります。
 これはとても重要な点です。決して見過ごしてはならない点です。なぜなら、聖書においては、人間を神として礼拝することは偶像礼拝であり、あってはならない罪だからです。聖書では礼拝されるのはもちろん、ほめたたえられるのもただお一人神様だけです。これは聖書が絶対に譲らないことです。
 例えば、ヨハネの黙示録の最後の所22章で、天の幻を見せられた使徒ヨハネが、天使の足もとにひれ伏して拝もうとした時のことです。その天使がヨハネに言いました。「やめよ。私はあなたやあなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ」(ヨハネ黙示録22:9)。‥‥聖書では、神様以外の者を拝んではならないのです。その点で聖書は非常に厳格です。
 ところが、今日の個所では弟子たちがイエスさまのもとにひれ伏して拝んでいます。しかもそれをイエスさまは止めようとなさらない。すなわち聖書はここで、人としてこの世にお生まれになり、この地上を歩まれ、そして十字架につけられて死に、墓に葬られたが、三日目に神様によってよみがえったイエスさまは、神であるということを暗黙のうちに語っているのです。弟子たちはユダヤ人です。旧約聖書の民です。旧約聖書では、神様はただ一人であると徹底的に教えられています。だからそのユダヤ人である弟子たちが、イエスさまを神として拝む、ひれ伏すということは、本来あり得ないことです。しかしそのユダヤ人である弟子たちが、ガリラヤの山で復活のイエスさまにお会いして、ひれ伏して拝んだ、礼拝したという。
 それは、十字架の前にイエスさまを見捨てて裏切った自分たちを、赦して受け入れる復活のイエスさまにお会いした時、そのイエスさまがまさに神であることを信じざるを得なかったのです。そこに旧約聖書の預言の成就した神の御子、キリストの姿を見たのです。

大宣教命令

 17節には「しかし疑う者もいた」と書かれています。何を疑ったのか? イエスさまがよみがえったことを疑ったのでしょうか?‥‥そうではありません。既にこのガリラヤに来る前に、11人の弟子たちは何度も復活のイエスさまにお会いしているからです。では何を疑ったのか?‥‥それは今述べたことですが、イエスさまが伏し拝む対象である方であるということ、すなわち神の御子であり神であることに、まだ疑いを持つ者がいたということです。
 しかしそのような疑いを持つ弟子たちがいても、イエスさまは言葉を語られました。「私は天と地の一切の権能を授かっている」。誰から授かったのでしょうか?‥‥もちろん、父なる神様です。天地の一切の権能を持っておられたのは、父なる神様に他なりません。その権能を、御子であるイエスさまにゆだねられたのです。言い換えれば、この世界の命運は、イエスさまにゆだねられたのです。それは本当に良かったと思います。なぜなら、イエス様という方は、私たち罪人を救うために十字架にかかって命を投げ出して下さった方だからです。私たちを救うためにご自分の命に代えて下さった方だからです。私たちを愛しておられるのです。その方が、この世界の運命を握っておられるという。神は、私たちを愛して命を投げ出して下さったイエスさまに全権をお与えになったのです。
 そのイエス様は、この世界を救おうとされる。私たちを救われたように。どうやって救われるのでしょうか?‥‥それがその続きに語られたことです。=「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(19〜20節)
 これは教会で一般に「大宣教命令」と呼ばれているものです。「弟子」というのは、イエス・キリストを信じる人のことです。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」‥‥私たちの神様が、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神様の三位一体の神であることを、イエスさまご自身が明らかにされています。世界の創造主である父なる神様から全権をゆだねられたイエスさまは、私たち人間を救うために、世界のすべての民をイエス・キリストを信じるようにし、洗礼を授けて教会に加えるようにお命じになりました。これが教会の使命です。伝道です。
 教会は、自分の勢力拡張のために伝道するのではありません。何か人数が少ないと寂しいから伝道するというのでもありません。あまり人数が増えると、人間関係が疎遠になるから、教会の規模はこれぐらいで良いというのでもありません。そういう人間の思いで、伝道したりしなかったりするのではないのです。
 教会は伝道する団体です。教会が常に伝道するのは、それがイエスさまが教会に与えた使命であるからです。行ってすべての民にイエス・キリストの福音を宣べ伝え、洗礼を授けて教会に加え、イエスさまの教えを守るように教える‥‥それが教会の務めです。

共にいるイエス

 そして主イエスは、伝道を人間の力でしなさいと言われたのではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃったのです。イエスさまが共におられて、伝道して下さるのです。勝手にやれ、とおっしゃるのではありません。イエスさまが共にいて伝道して下さるのです。
 「いつもあなたがたと共に」とおっしゃいました。この「いつも」という言葉ですが、詳しく言うと、原語では「すべての日々」という意味になっています。「すべての日々」‥‥毎日、毎日、ということです。なにか、ぐっと現実味を帯びて聞こえませんか? 「いつも」と言うと、なるほど「いつも」には違いないのですが、なんだか漠然としているような感じがします。しかし「すべての日々」というと、「きょうも」「あしたも」‥‥と、なんだか力強い約束のように聞こえてきます。つまり、非常によい日も、逆に非常に悪く思える日であっても、イエスさまが共にいて下さると言うことです。喜ばしい日も、試練の日も、苦しみの日も、イエスさまは見捨てたのではなく、共にいて下さるということです。「私は世の終わりまで、すべての日々、あなたがたと共にいる」‥‥何という感謝なことでしょうか。

伝道していった時に

 しかし「そんなこと言われても、イエスさまが一緒にいて下さる気がしない」‥‥と思われる方もいることでしょう。「気がする」とか「しない」とかいう問題ではありません。イエスさまが、「世の終わりまで、すべての日々、あなたがたと共にいる」とおっしゃるのですから、いてくださるのです。そして、イエスさまが共にいて下さることが、はっきり分かるのは、この大宣教命令をおっしゃったイエスさまの言葉に従って、伝道していった時に、イエスさまが共にいて働いて下さることが分かるのです。
 使徒たちの伝道の記録である「使徒言行録」を見ると、そのことがはっきり分かります。例えば使徒パウロが、初めてヨーロッパに渡ってイエス・キリストの福音を伝道し始めた時、最初のフィリピの町で、町の郊外の河原でそこで神を礼拝していた婦人たちにイエスさまのことを語ると、主がリディアという婦人の心を開いて、その日のうちに彼女はイエスさまを信じ、彼女の家族も信じて洗礼を受けました。これも主の奇跡です。
 またそのフィリピの町でパウロは牢屋に入れられてしまいましたが、その夜に大地震が起こって、そのことがきっかけで、その夜のうちに牢屋の看守とその家族もイエスさまを信じて洗礼を受けました。不思議なことです。
 さらに、コリントの町では、パウロは主が幻のうちに「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だからあなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:10)と語って下さいました。そしてその通りになりました。
 エフェソの町では、パウロを通して病人が癒され、悪霊に取りつかれていた人から悪霊が追い出されました。‥‥そのように、使徒たちは、イエスさまの大宣教命令に従って、イエスさまの福音を伝道していった時に、確かに主イエスが聖霊を通して、いつも共にいて下さるのを知ることができたのです。
 最初にご紹介した御婦人もそうでした。お子さんのために熱心にしつこく祈った祈りを、共におられる主がかなえて下さったのです。そしてこの私も、そうでした。キリストの福音を宣べ伝えたいと願い、祈り始めてから、共におられる主の働きを見ることができるようになりました。

私たち自身が

 それにしても、マタイによる福音書を読んでも、イエスさまの復活について書いてあることはあまりにも短いのではないか、と思われます。復活という極めて驚くべき大きな出来事であるのに、それまでのイエスさまの働きについて書かれている分量と比べても、あまりにも少ない。短すぎる。なぜもっと詳細に、復活のイエスさまが何をなさったのか、書かないのか。「本当にイエスさまは復活なさったのだろうか?」‥‥などと疑問に思われる方もいるかも知れません。
 福音書の中でも最も長いマタイによる福音書が、なぜ福音書の中でも一番短くしかイエスさまの復活について書いていないのか?‥‥それはまさに、本日の最後のイエスさまの言葉と関係があると言えます。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」=「世の終わりまで、すべての日々、あなたがたと共にいる」。イエスさまは復活なさったのですから、生きて共にいて下さることができるのです。目には見えないが、聖霊を通して共におられる。その生きておられるイエスさまを、信仰し、伝道していく時に私たちが確認することができるのです。ですから、私たちはイエスさまの復活の証拠を、文字で書かれた文書を研究して探す必要は、これ以上いらない。マタイはそう言っているかのようです。
 生きて、日々共にいて下さるキリスト。このキリスト・イエスさまを、私たちは共に証しできるように歩んでまいりたいと願っております。

(2011年5月8日)


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