礼拝説教 2011年5月1日

「頑迷な心」
 聖書 マタイによる福音書28章11〜15

11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、
13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。




 イエスさまの復活をめぐる出来事が書かれています。今日の個所は、非常に興味深いものがあります。それは、イエスさまを十字架にかけた人々が、イエスさまのよみがえりを聞かされた時の反応の仕方です。この人たちは、イエスさまの復活を目撃した人たちから、その証言を聞いたのですが、イエスさまを信じるようになったのではなく、逆にイエスさまの復活の出来事をもみ消そうとしたのです。

番兵たちが目撃したこと

 もう一度、本日の聖書を見てみましょう。すると、復活のイエスさまに出会った婦人たちが、イエスさまの指示でエルサレムのある家の中に閉じこもっている弟子たちの所に行き着くよりも先に、イエスさまの墓を見張っていた番兵たちが、エルサレムに戻って、祭司長たちに報告したことが書かれています。祭司長たちというのは、イエスさまを十字架にかけるために暗躍した人たちです。
 番兵たちが「この出来事をすべて祭司長たちに報告した」と書かれています。密かにイエスさまの弟子となっていたアリマタヤのヨセフらによってイエスさまの遺体が墓に葬られたあと、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトの所に行って、イエスさまの墓に番兵を置いてくれるように頼みました。それは、かねてからイエスが自分が三日後に復活すると言っていたこと、そしてイエスが復活したように見せかけるために、弟子たちが墓からイエスの遺体を盗んでしまうだろう、という理由からでした。それで総督のピラトはローマ兵を番兵としてつけたのです。そして祭司長たちは、丁寧にもイエスさまの墓の入り口をふさぐ墓石に封印をしました。
 そして日曜日の朝早く、驚くべき出来事が展開されたのです。マグダラのマリアら、婦人の弟子たちがイエスさまの墓に向かった時、墓の入り口を塞いでいた大きな丸い墓石が、天使によってどけられたのです。それを見て番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(5節)と書かれています。驚きと恐怖のあまり声も出ず、金縛りのようになったということでしょう。その金縛りになった番兵たちがそのあと見たものは、天使が婦人たちにイエスさまの復活を告げた場面です。そしてさらに、婦人たちが天使たちの言う通り弟子たちにイエスさまの復活の知らせを告げるために走り去ろうとした時に、そこに復活のイエスさまが現れたことも見たのだと思われます。それが、番兵たちが見た出来事のすべてであり、それを祭司長たちに報告したのです。

事実をねじ曲げる

 それを聞いた祭司長たちはどうしたか。番兵であるこのローマの兵士たちは、イエスさまのよみがえりを伝えたのです。まさか彼らがウソをつくはずもありません。ウソをついたとしても、なんのメリットも彼らにはないからです。ですから、番兵たちからイエスさまの墓での出来事を聞かされた時、驚いて、イエスさまの復活の事実を認め、そして素直に自分たちの罪を悔い改めて、「真にイエスはキリストだった」と告白するに至る‥‥そんなことを当然期待したくなります。
 ところがそうならなかった。祭司長と長老たちは集まって相談し、番兵たちに多額の金を与えて、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」‥‥と言ったというのです。なんのことはない。イエスさまを十字架に追いやった祭司長と長老たちは、金で兵士たちを買収し、嘘を言わせたのです。
 そもそも番兵というのは、見張りです。ところが、夜中に寝てしまって、そのすきに弟子たちが来てイエスの遺体を盗んだということが明らかになると、番兵は総督によって死刑にされてもおかしくないのです。実際、使徒言行録を見ると、ペトロが閉じ込められた牢屋から、神様の奇跡によって外に出された時、番兵たちは責任を取らされて死刑になりました(使徒12:19)。ところがそれを、寝てしまったすきにイエスの弟子たちが墓にやってきて盗んだことにしてくれと言う。それで祭司長たちは、「もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と言ったのです。死刑にならないように取りはからってやるから、と。そして多くのお金で買収した。事実を曲げさせたのです。
 皆さん、これを驚かないでいられるでしょうか?‥‥死んで墓に葬られた方が三日目によみがえられた。これはどう見ても、奇跡ではありませんか? しかも奇跡の中の奇跡です! すばらしい奇跡です! ところがイエスさまを十字架に追いやった人々は、その奇跡の報告を聞いてた時に、悔い改めなかったのです。素晴らしいと思わなかったのです。
 注意してみると、彼らは「番兵の言っていることはウソだ」とは言いませんでした。つまり天使の登場や、イエスさまのよみがえりの事実を否定したのではないのです。すなわち、イエスさまがよみがえったことは受け入れている。しかしそれは困ったことになったと言わんばかりに集まって相談し、復活したのではなく、弟子たちがイエスの遺体を盗んだことにした。いったいこれはどういうことでしょうか?‥‥すなわち彼らは、どうしても、イエスさまがキリストであり神の子であることを信じないのです。どんな奇跡を見ても、死んでよみがえったことを聞いても、イエスがキリストであることを信じない。なぜでしょうか?‥‥それが「頑迷である」ということです。彼らの心が頑迷な心となっているからです。かたくななのです。

頑迷な心

 メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーによれば、 「頑迷」とは「我々自身の党派・意見・教会・宗教への強すぎる愛着、あるいは愛好である」と述べています(ウェスレー説教「頑迷に対する警告」)。すなわち、「自分たちの主義主張が絶対に正しい」として譲らないことです。今日流に言えば、「マインドコントロール」あるいは「洗脳」されているということでしょう。
 私は思い出すことがあります。それは私がまだ信仰に入る前の学生時代のことです。そこの大学の大学祭実行委員長というのをやったことがあります。そうすると、ある特定の政治党派が、いろいろなサークルや団体名を名乗って、大量に実行委員として応募してきたのです。私は彼らと討論しました。ところが、彼らはどの人をとっても全く同じことを言うのです。「どこを切っても金太郎飴」です。そしてその主張は、その政党と同じ主張でした。つまりその政党が、いろいろなサークルや団体の名を名乗って、大学祭を乗っ取ろうとしてきたのですね。私は誠心誠意をつくしたつもりで、話しをしたのですが、彼らはどのサークルの人であっても、その属する政党の機関紙と同じことしか言わない。もう人間の話しにならない、と思いました。今考えれば、それが「洗脳されている」ということだと思います。私は、空恐ろしさを感じました。
 イエスさまの復活についての証言を聞いても、それをねじ曲げた人々は、それと同じです。見ても聞いても信じない。かつてこの人々は、イエスさまが病気の人々を癒すという奇跡を見ても、「あれは悪霊の頭(かしら)の力によって悪霊を追い出しているのだ」とねじ曲げて言いました。おそらく、イエスさまの復活についても、悪霊、悪魔の仕業だとでも思ったのかも知れません。つまり彼らは、自分たちの主義主張が絶対であって、それと違うものは悪魔の仕業であると断じているのです。そしてその根っこにあるものは、イエスさまに対する「ねたみ」でした。マタイによる福音書27:18に、イエスさまを十字架につけるよう要求する人々の声に対して、総督のポンテオ・ピラトはイエスさまを釈放しようとしましたが、それは「イエスを引き渡したのは、妬みのためであると分かっていたからである」と書かれています。
 すなわち、イエスさまに対する「ねたみ」という罪があり、そこに自分たちの宗教の主義主張を乗っけて、「イエスはキリストではない、神のもとから来たのではない」と断定し、そこからすべてを色眼鏡で見ていたのです。イエスは悪霊の仲間であり、神の敵であると断じていたのです。それが「頑迷な心」です。かたくななのです。自分たちの主義主張に洗脳されているのです。だからイエスさまの癒しの奇跡を見ても信じない。イエスさまの復活の場面に居合わせた番兵たちの証言を聞いても信じない。神の大いなる働きを認めることができないのです。頑迷さのゆえに。

もし信じていたら

 非常に残念なことです。非常にもったいないことです。もしこの時、祭司長や長老たちが、番兵たちの証言を聞いて、イエスさまがよみがえったことが神の業であることを信じたならば、どんなに彼らの人生は違っていたことでしょうか?‥‥イエスさまが復活されて、自分たちの罪を赦してくださる。そして自分たちを神の子としてくださる。そして自分たちも、やがて復活の命を与えられて、永遠の神の国の住人となることができる。この世においては、聖霊なる神様と共に、生ける神の働きを見ながら、喜んで生きることができるのです。
 しかし彼らは、イエスさまの復活は神の業であると信じなかった。それは、弟子たちが来て盗んだことにしてしまった。奇跡であり神の働きであると信じなかった。その結果、神の御子イエスさまがこの世に来られたというのに、その恵みを受け取ることができなかったのです。それではイエスさまが来られても、来られなくても、何も変わらないことになってしまいます。

生ける神を認める喜び

 ただ私たちは、決してこれを他人事として読むことはできません。私たちもまた、神様の働きがあるのに、それを認めないで、まるで神様がいないかのように生きていることはないでしょうか。
 先日、ある御婦人から手紙をいただきました。彼女はクリスチャンで、その手紙は喜びを爆発させたような内容の手紙でした。何をそんなに喜んで手紙をくれたかというと、神様が祈りを聞いてくださったという喜びでした。それは、受験したが落ちたと思っていた国家試験に合格したという喜びの報告でした。そして彼女のそのうれしさというのは、国家試験に合格したと言うこともそうなのですが、むしろ神様が確かにおられるという経験をさせてくださった、ということがうれしかったのです。神様の奇跡を見たのです。彼女は書いていました。今まで人からそのような体験や証しを聞いていた。でも今回、生まれて初めてそういう不思議な経験をさせていただくことができました、と神様に感謝しているのです。
 皆さんはこれをどのように思われますか?‥‥「そんなのは偶然だ」と思うでしょうか。偶然だというのなら、それは喜びもたいしたことではなく、一過性のもので終わるでしょう。それはただ試験に合格して良かったね、というだけのことです。しかしそこに神様の働きを認めるのなら、喜びは何倍にもなります。試験に受かったということよりも、「神様が、この私のような者をもかえりみてくださった」という喜びがはるかに大きいのです。十字架で死んだキリストが、確かによみがえられて、この私をもかえりみてくださっている、ということが分かるのです。「確かに主が共にいて下さる」ということが見えてくるのです。その喜びは、この地上のどの喜びよりも優るのです。
 頑迷なために、キリストの復活を受け入れず、神の働きが見えなくなってしまうのは、まことに残念なことです。そこには本当の喜びがありません。私たちが神様に向かって開かれた、柔らかい心。そうであるように祈りましょう。

(2011年5月1日)


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