礼拝説教 2011年4月24日 復活祭(イースター)礼拝

「復活の朝」
 聖書 マタイによる福音書28章1〜10

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」




復活の事実について

 イースターおめでとうございます。本日はマタイによる福音書から、私たちの主イエスさまの復活について耳を傾けて参りたいと思います。まず本題に入る前に、新約聖書の4つの福音書に記録されているイエスさまの復活の出来事について述べたいと思います。牧師が受ける質問の中に、イエス・キリストの復活の出来事について、4つの福音書の記事がそれぞれ微妙に違っていると言われることがあります。確かに4つの福音書の記事を見ると、いくつかの点で違いがあります。
 そのことで私は思い出すことがあります。私が東京神学大学の学生であった時、三鷹教会という所に通っていたのですが、高校生会を担当していました。そこである時、そのようなことが話題となり、私はどのように言えばよいのかと思案しました。そこで、東京で一般に読まれている新聞を4つ買いました。読売、朝日、毎日、産経だったと思います。そして、4つの新聞すべてに載っている事件や事故を探しました。すると、ある遊園地でジェットコースターが途中で止まってしまい、乗客が救助隊によって助け出された、という事件が載っているのを見つけました。その事故は、4つの新聞すべてに報道されていました。そして私は、その事故が新聞によってどのように違って報道されているかを見比べてみました。
 するとたいへん興味深いことが分かったのです。それは4つの新聞どれ一つとして、全く同じように報道されているものはないということでした。例えば、ジェットコースターが途中で止まってしまった所の地上からの高さが、例えば16メートルと書いてある新聞があるかと思えば、20メートルと書いている新聞もありました。ジェットコースターに乗っていた乗客は何人だったかについても、例えば20人と書いてある新聞もあれば、25人と書いてある新聞もある。ジェットコースターが空中で止まってしまった時刻についても、新聞によってバラバラでした。救助された乗客の感想についても、まちまちでした。
 それだけを比べると、「これは本当に同じ事故について書かれているのか?」と思ってしまいそうです。しかし事故が起こった日と遊園地の名前は同じです。だから同じ事故について報道しているのだと分かります。しかし細かい点については、それだけの違いがある。これについて、「4つの新聞にそれだけの違いがあるから、この事故は無かったのだ」とか、「本当にこの事故があったのかどうか疑わしい」と言う人は一人もいないでしょう。むしろ逆に、それぞれの新聞が細部は違っていたり、違った角度から書いているからこそ、「確かにこの事故は起こったのだ」と当然のように思うでしょう。
 イエスさまの復活に関する記事が、4つの福音書で書き方が微妙に違っていることについても、全く同じことが言えると思います。

ここまでのあらすじ

 聖書に入ります。すべては絶望でした。ただしこの復活の日曜日の朝までは。人々から見捨てられ、弟子たちからも裏切られ、見捨てられたイエスさま。その人間の絶望的な罪深さを背負って、イエスさまは十字架にかけられました。すべてをその身に引き受けられて。神の罰を受けられたのです。私たちに代わって。そしてイエスさまは息を引き取られました。もしかしたら、父なる神が天使を送って十字架のイエスさまを解放するのではないか。そんな最後の願いも断たれ、イエスさまは死なれました。父なる神様は、イエスさまを十字架上にお見捨てになりました。
 すべてが終わったのです。それはイエスさまに従ってきた弟子たちにとって、すべての終わりを意味したことでしょう。弟子たちは、自分自身が、こともあろうに主を見捨てたという自らのどうしようもない罪深さに打ちのめされていました。自分自身の終わりでした。そして、その主イエスが十字架で死なれ、墓に葬られた。イエスさまもまた終わってしまった。弟子たちが考えられる最悪の状態で、すべては終わったのです。そのように見えました。

日曜日の朝

 何も作業をしてはならないというユダヤ人にとっての「安息日」は、金曜日の日没から始まります。午後3時ごろ十字架上で息を引き取られたイエスさま。日没の6時までに、3時間しかありません。その間に、イエスさまを墓に葬ってしまわなければなりませんでした。そこに密かにイエスさまの弟子となっていた、アリマタヤのヨセフという議員が、ローマ帝国のユダヤ総督であったポンテオ・ピラトから、イエスさまの遺体を十字架から取り下ろす許可をもらいました。そして、イエスの遺体を引き取り、自分の墓にイエスさまを葬りました。マグダラのマリアともう一人のマリアは、それを見ていました。
 そして翌日が安息日。墓へ行くこともできません。そしてその翌日、すなわち日曜日の明け方に、婦人の弟子たちがイエスさまの墓に向かいました。あわただしく葬られたイエスさまの遺体を、もう一度没薬や香料を塗って、きれいにして差し上げるためです。彼女たちもおそらく非常な悲しみの中にあったことでしょう。しかし彼女たちは、男の弟子たちが絶望のどん底で、家に鍵をかけてこもっているのと対照的に、まだイエスさまのためにして差し上げることがあるといわんばかりに墓に向かったのです。
 そるとそこに大きな地震が起こったと書かれています。地面が揺れたのは、天使が天から降ってきて、イエスさまの葬られた墓の墓石をどかしたからだというのです。
 天使‥‥「天使が出てくるなんで、おとぎ話みたいで信じられない」と思う方もおられることでしょう。ただ、多くの人は「天使」と聞くと、背中から羽が生えた存在だと思うでしょうが、聖書には、天使に羽が生えているとは書かれていません。この所は、ルカによる福音書の同じ場面では、「輝く衣を着た二人の人」と書かれています。マタイはそれを天使であると断定しているのです。「天使が出てくるからおとぎ話みたいで信じられない」と言われても、出て来ているものは仕方がないと申しましょうか。当時の人も、やはり「天使が出てこない方が信じられる」と思ったことでしょう。しかし、逆に誰が信じられないと思っても、事実は事実として書いておかなければならない‥‥そういう毅然たる姿勢をこの所に感じるのです。
 すなわち、十字架の場面では、あれほど沈黙なさり、イエスさまを見捨てた神さまが、この朝になって、突然イエスさまを巡って働き始められたのです。

神の言葉に従う

 そして天使が、イエスさまの復活を宣言する。実際に復活のイエスさまにお会いする前に、天使が復活を言葉で告げています。これはたいへん意味深いことです。天使の告げる言葉というのは、神様の言葉です。神様からのメッセージを、天使が人間に伝えているのです。すなわち、まず神様の言葉が先にあるのです。
 私たちは言葉よりも、現実を見たいと思う。この世に生きているうちに、言葉の空しさを知っていくからです。政治家の約束の言葉の空しさがよく挙げられます。しかし私たちは政治家だけを非難することはできない。私たちの言葉もまた、同じように空しいからです。「あなたのためなら命も捨てます」と誓ったペトロが、その舌の根も乾かないうちに、イエスさまを3度も否認したように。私たちは、自分自身の言葉に力がないことを知っています。人間の言葉の空しいことを知っています。だから、天使がイエスさまの復活を告げた時、何かもどかしいものを感じます。
 しかし神の言葉は違います。聖書の一番最初、創世記の第1章を読むと、神さまは言葉によってこの世界をお造りになりました。初めに神様が天地を創造された時、「光あれ」とおっしゃると光ができました。「地は草を芽生えさせよ」と言われると、その通りになりました。神の言葉はその通りになるのです。そういう実際の力ある言葉が、神の言葉です。天使はその神さまの言葉を伝えたのです。「あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ」と。
 婦人たちは、天使を通して語られた神の言葉に従って、急いで墓から立ち去り、弟子たちの所にイエスさまの復活の言葉を伝えるために走っていきました。神の言葉に従って行ったのです。その時、復活のイエスさまに出会ったのです。神の言葉に従った時に、復活のイエスさまにお会いできると聖書は教えているのです。

喜べ!

 二人のマリアは走っていきました。すると行く手にイエスさまが立っておられました。復活のイエスさまがそこにおられたのです。
 そして「おはよう」と言われました。「おはよう」‥‥朝の挨拶です。朝だから、朝の挨拶です。当たり前と言えば当たり前ですが、その当たり前の言葉が、確かに復活して生きておられるイエスさまを静かに証ししています。十字架で、私たちの代わりに神の裁きを受けられ、死んで墓に葬られたイエスさまが、神によって復活させられたのです。そしてこの「おはよう」という言葉ですが、挨拶の言葉でもあるのですが、このギリシャ語のもともとの意味は、「喜べ」という言葉です。イエスさまは「喜べ」とおっしゃいました。なぜ喜べと言われたのか?‥‥一つには、もちろんイエスさま自身が復活なさったということです。これはまことに喜ばしいことです。
 もう一つは、このよみがえりは、イエスさまご自身の復活にとどまらないということです。イエスさまだけがよみがえられたということならば、「よかったですね」で終わります。しかしイエスさまのよみがえりは、それにとどまりません。なぜなら、私たちの罪を担って、私たちの代わりに神の罰を受けて死んで下さったイエスさまは、私たちがイエスさまと共によみがえるために復活なさったからです。
 使徒パウロも述べています。(Tコリント15:20)「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」‥‥たくさん植わっている麦畑で、一番最初に実を結んだ穂が「初穂」です。初穂が喜ばしいのは、初穂は初穂にとどまらないからです。初穂は、そのあとに続々と他の麦が実を結んでいくからです。イエスさまの復活は、初穂です。私たちがそれに続くことを約束しておられるのです。イエスさまにつながる者が、イエスさまと同じようによみがえる。復活する。だから「喜べ」と主イエスはおっしゃったのです。
 そしてイエスさまの復活は、単に生き返ったということではありません。単に生き返っただけなら、マルタとマリアの弟であるラザロも死んで墓に葬られましたが、イエスさまが生き返らせて下さいました。会堂長ヤイロの娘も、イエスさまによって生き返りました。しかしラザロといい、ヤイロといい、また寿命が来て死んだのです。しかしこのイエスさまの復活は、そのようなものとは違います。それは永遠の命へのよみがえりです。復活なさったイエスさまが、このあと40日間にわたってしばしば弟子たちの所に姿をお現しになります。そしてそのあとまた死んで墓に葬られたのではありません。天に昇られたのです。すなわちこのイエスさまの復活は、私たちが天において復活し、永遠の命を与えられることを予告なさっているのです。
 イエスさまは、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。イエスさまを見捨て、裏切ったあの弱く罪深い弟子たちを。それゆえ、私たちもまた、全く救われる資格がない者ですが、イエスさまは「私の兄弟」と呼んで下さる。だから私たちもまた「喜べ」と言われる主の言葉を、自分に語られた主の言葉として聞くことができるのです。イエスさまを信じることによって、その約束をいただくのです。だから「喜べ」と言われるのです。
 「喜べ」とおっしゃるのだから、喜びましょう。私たちは喜んでよいのです。私たちと共に死なれるイエスさまが、私たちを連れて神の国に復活する約束を与えて下さっている。感謝です。

(2011年4月24日)


[説教の見出しページに戻る]