礼拝説教 2011年4月21日 洗足木曜日聖餐礼拝

「絶望の夜明けから」
 聖書 マタイによる福音書26章69〜75

69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。




あらすじ

 洗足木曜日を迎えました。この日の夕刻、イエスさまは弟子たちと共に最後の晩餐をされました。そしてヨハネによる福音書によれば、イエスさまは、たらいに水を汲んで弟子たちの足を一人一人洗われました。そして弟子たちと共に満月の夜道をゲッセマネの園に行かれ、そこでイエスさまは一人になって、父なる神様との祈りの時を持たれました。それは十字架にかけられるために進むべきかどうかを、父なる神様に尋ねるための祈りでした。そしてその祈りを終えられたあと、12使徒の一人であるユダの先導によって、祭司長や民の長老たちの遣わした人々によって捕らえられました。その時、弟子たちは皆イエスさまを見捨てて逃げてしまいました(マタイ26:56)。そしてイエスさまは、大祭司カイアファの邸宅に連行され、そこで急きょ議会が招集され、ユダヤ人議員らによるイエスさまの裁判が行われました。夜も深まっていました。

邸宅の中へ

 その、イエスさまの訊問が行われている大祭司カイアファの邸宅の中庭に、弟子のペトロが誰にも目立たないように入って行きました。一度は他の弟子たちと共に逃げたのですが、気がとがめたのでしょうか。ここで、ペトロの否認と呼ばれる出来事が起きるのです。現在はエルサレム旧市街地を囲む城壁の南側の外になりますが、シオンの丘へ上っていく坂道があります。その途中に「鶏鳴教会」があります。それが、この時イエスさまが尋問を受けた大祭司カイアファの邸宅のあった場所です。
 2004年、私たち家族はここを訪れました。パレスチナの紛争が収まって間もない頃でしたので、他に観光客もおらず、静かに黙想することができました。エルサレムという町は、戦乱が繰り返されてきたので、イエスさまの時代の実際の地面の多くは、現在の地面の下のほうに埋まっているのですが、そこは坂であることもあって、当時のままの石段が残っているのです。そのようにガイドさんから説明を受け、非常に感慨深いものがありました。「確かに二千年前、イエスさまはここを鎖で縛られて上って行かれたのだ」と思うと、神の御子イエスさまが確かに人となられて、私たちの罪を負うためにここを歩かれたのだということが、非常に印象的に心に刻まれるような思いがしました。
 そしてこの場所こそ、人間の罪深さ、弱さというものを深く自らの心に思わしめる場所に違いありません。つい先ほど、ゲッセマネの園に来る途中に、イエスさまはペトロに対して、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マタイ26:34)と予告されました。それに対してペトロは、「たとえごいっしょに死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決してもうしません」と断言しました(マタイ26:35)。ですから、一度は逃げたものの、気がとがめたのか、イエスさまの連行された大祭司カイアファの邸宅に入っていったのです。そしてその中庭で、たき火にあたっていました(ルカ福音書)。邸宅の中では、イエスさまが議員たちによって尋問を受けられ、そして死刑が決まると、イエスさまは殴られたり顔に唾を吐きかけられて侮辱されました。そのような出来事が進行していく中で、ペトロはどんな思いで人々に混じっていたことでしょうか。今こそ、邸宅の中に飛び込んでいって、「その人は無実だ!」と叫んで抵抗するか、あるいは「その人を死刑にするのなら、俺も死刑にしてくれ」と言って主と共に殉教するか、そういう決断の時ではなかったでしょうか。まさにペトロもそのようなことを考えていたに違いありません。私たちは息をのむようにして、この場面に引き込まれていきます。

否認

 ところがその時、まさに思いがけない所からペトロに声がかかったのです。一人の女中が「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と。まるで不意打ちを食らうかのように。それに対してペトロはどうしたのか。と聖書にはこのように書かれています。「ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、わたしには分からない』と言った」(70節)。
 ごまかしたのです。「違う」と言ったのでもなく、「そうだ」と肯定したのでもない。「なんのことを言っているのか分からない」と言って、ごまかしたのです。この言葉にペトロの狼狽ぶりがあらわれています。不意打ちを食らって思わず出た言葉と言えましょう。しかしそれがまさにペトロの心のありのままの姿を表していたのです。主イエスはかつて、「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」とおっしゃいました(マタイ12:34)。
 ペトロは、まずいと思ったのか、さりげなく邸宅を出て行こうとして門のほうへ向かっていきました。しかし、悪魔はそのような暖昧な態度を容赦しませんでした。さらに追いかけるように、門へ向かうペトロの背後から声がかかったのです。他の女中が、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。するとペトロは今度は、「そんな人は知らない」と言ったのです。しかも「誓って打ち消した」とあります。神様に誓って、そんな人は知らないと答えたのです。
 「知らない」というのは、その人との関係を断つ言葉です。なんということでしょうか。ガリラヤ湖で漁師をしていた時に、イエスさまから声をかけられて、すべてを捨ててイエスさまに従ってきたペトロ。イエスさまにういて、「あまたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白したはずのペトロ。それに対してイエスさまは、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」とおっしゃったそのペトロ。「あなたのためなら命も捨てます」とイエスさまに言ったペトロ。…そのペトロが、イエスさまを否認したのです。悪魔はそれでも容赦しませんでした。さらにたたみかけるように、ペトロに対して人々が言いました。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれがわかる」。
 するとペトロは、「呪いの言葉さえ口にしながら」、「そんな人は知らない」と言って誓い始めました。「呪いの言葉さえ口にしながら」・…こともあろうに、イエスさまを呪ったのです。そうして、自分とイエスさまが無関係であることを誓ったのです。おそらく周りにいた人々は、顔を見合わせてあっけにとられたに違いありません。ペトロがイエスの仲間だからと言って、捕らえようとしたわけではなかったでしょう。そこにいた多くの人が、ペトロがイエスさまの弟子だと言うことを知っていたでしょう。それなのになぜここまで、イエスさまとの関係を否定するのか、呪いまでするのか…そこにいた人々は、唖然としたことでしょう。

鶏鳴

 その時、夜明けを告げる鶏が鳴きました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マタイ26:34)とおっしゃった、イエスさまの予告通りでした。ペトロは思い出しました。昨晩、イエスさまが自分について予告した言葉を。それをペトロは必死に否定したはずではなかったか。「たとえごいっしょに死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決してもうしません」(マタイ26:35)と言って。しかしイエスさまの予告通りになったのです。
 自分自身のことについて、自分よりもイエスさまのほうがよくご存知だったのです。なんということでしょうか。ペトロはあれほど愛していたはずのイエスさまを見捨てたのです。否認したのです。自ら関係を否定し、拒絶したのです。捨てたのです。
 鶏の鳴き声で我に返ったペトロは、外に出て激しく泣いたとあります。自分の弱さを思い知ったのです。自分の罪深さを思い知ったのです。それに対して、ペトロは泣くことしかできなかった。それが人間のありのままの姿です。夜明けを告げる鶏。夜が明けて朝を迎える。それは、暗い闇が去って明るい朝を迎えることですが、決して希望を表すものではありません。時には、朝を迎えるということは絶望であることがあります。いよいよその日が来てしまった、という。そのような朝は、希望どころではなく、絶望のどん底でしかありません。

弱く罪深い者を救うために

 このペトロの姿は、私たちすべての姿です。ペトロだけが弱いのではありません。仮に、「私はイエスと共に死ぬことができる」と言って誇ったとしても、そんなものには何の意味もありません。(1コリント13:3)「全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と書かれている通りです。そのような人間模様の中を、イエスさまは十字架へ向かって進まれます。ペトロが否認して、イエスさまは十字架に向かわれるのをやめたのではない。前へ前へと進まれる。そして十字架にかかられたのです。ここが大切な所です。
 イエスさまは、十字架へ向かうのを辞められなかった。すなわち、私たち人間の罪、弱さを背負って行かれるのです。このペトロの姿は、人間が自分で自分を救うことができないことを表しています。その自分で自分を救うことができない私たちを救うために、主イエスは十字架へ行かれるのです。こんなどうしょうもなく情けないペトロ、そして私たちを救うために。十字架で死なれたイエスさまは、三日目の朝よみがえられました。そして弟子たちに復活の姿を現されました。イエスさまを見捨てた弟子たちを、その見捨てる罪深さ、弱さを背負って、それを赦して救われたことを証明されたのです。
 それゆえ、ペトロの否認は悪魔が勝利したのではありません。この徹底的に人間の弱さと罪深さを暴いたサタンは、その罪深く弱い人間の罪を背負って十字架にいかれ、それを赦して復活の姿を現されたイエスさまによって敗北したのです。イエスさまの愛が上回ったのです。それゆえ私たちの弱さは、忌むべき秘密ではありません。イエスさまが、「こんな私でも、十字架にかかって救ってくださった」という証しとなるのです。([コリントll:30)「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。」私たちはイエスさまの十字架によって、罪を赦されました。弱さを背負ってくださいました。私たちは赦されています。愛されています。感謝します。

(2011年4月21日)


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