礼拝説教 2011年4月17日 棕櫚の主日礼拝

「見捨てられたキリスト」
 聖書 マタイによる福音書27章45〜56

45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。



十字架のキリスト

 十字架に張り付けにされたイエスさまの姿です。先週は、前の晩のゲッセマネの祈りの場面を読みました。そのあとイエスさまは捕らえられ、大祭司の邸宅に連行されます。夜も深まっていきました。そして急きょ開かれた議会にて、イエスさまの死刑が宣告されました。その間に、使徒ペトロの否認という場面があるのですが、それについては今週の洗足木曜日聖餐礼拝にて黙想することといたします。そしてイエスさまは、ローマ帝国の総督であるポンテオ・ピラトの所に連れて行かれ、裁判が行われます。そしてピラトはイエスさまがローマ法に照らして無罪であることを知っていたのですが、死刑を要求する人々の声に押されて、十字架刑にするために、イエスさまを引き渡してしまいます。
 そしてイエスさまは、十字架を担がされ、途中からはもう担ぐことができなくなって、ローマ兵によってキレネ人シモンが十字架を担がされ、ゴルゴタの丘へ向かいました。そして処刑場であるゴルゴタの丘に到着し、そこでイエスさまは衣服を脱がされ、十字架に釘で打ち付けられ、張り付けにされ、十字架が立てられました。イエスさまの両側にも十字架が立ち、そこには二人の強盗が張り付けにされました。そのようにイエスさまは極刑である十字架に張り付けにされたのです。

主イエスの絶叫

 さて、今日読みました個所は、その十字架上のイエスさまの姿の後半部分です。そこで私たちは、この上もなく衝撃的な言葉に直面します。それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。しかもこの言葉をイエスさまは、大声で叫ばれました。「大声で叫ばれた」と書かれていますが、原文を見ると、それでは物足りない。言ってみれば、「この上もなく大きな声で絶叫された」と言うべき表現になっています。
 私たちはこのような言葉がイエスさまの口から、しかもこの上もなく大声で発せられたと聞かされて、耳を疑うのではないでしょうか。まさか、イエスさまの口からそのような言葉を聞くとは‥‥という思いです。できればそのような言葉をイエスさまの口から聞きたくない。足早に過ぎていきたい。‥‥そんな思いもいたします。
 ところが使徒マタイは、この言葉を強調しているのです。まず、イエスさまが十字架上で発せられた言葉は、他の福音書を総合しますと、7つ記録されています。しかしマタイは、実にこの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だけを記録しているのです。次に、たしかにこの言葉をイエスさまが大声で叫ばれたということが動かしがたい事実であると言わんばかりに、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、イエスさまが言われた通りの原語、アラム語の混ざったヘブライ語で記録しているのです。まるでテープレコーダーに録音した言葉を再生するかのように。
 このようにして、使徒マタイは、たしかに十字架上でイエスさまがこの言葉をおっしゃった、しかもこの上もない大声で絶叫された、ということに私たちの目と耳を釘付けにしているのです。十字架上のイエスさまの言葉として、この言葉だけを記せば足りると言わんばかりです。

見捨てられたイエスさま

 いったい誰が、このようなイエスさまの言葉を聞いて、うろたえずにおれるでしょうか。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」!‥‥それは全くイエスさまの言葉としてふさわしくないように、私たちには思えます。
 第一に、それはみっともない言葉のように聞こえます。こともあろうに、神に向かって自分を見捨てたと叫ぶなどとは、往生際の悪いようにも聞こえます。例えば、古代ギリシャの大哲学者であったソクラテスは、死刑の判決を受けた時、進んで毒ニンジンの杯をあおって死にました。また、忠臣蔵の赤穂浪士は、いさぎよく切腹したのではなかったでしょうか。ましてやイエスさまは、黙々と十字架にかかられて、むしろ人々を祝福しながら亡くなられるというのがふさわしいのではないかと思わないでしょうか。それなのに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とは、何か神を非難する言葉のようにも聞こえ、いかにも往生際が悪いように聞こえるのです。
 第二に、その言葉の中身です。父なる神が、イエスさまをお見捨てになったということです。これも実に衝撃的なことです。イエスさまが神の御子であると言うことは聖書の記していることです。その神の御子が、父なる神様から見捨てられたという。そんなことがあるのでしょうか。
 確かにイエスさまは、人々から見捨てられました。イエスさまの一番身近にいたはずの12使徒たちからも見捨てられました。12使徒の一人であるイスカリオテのユダがイエスさまをユダヤ人の祭司長・長老たちに売り渡して逮捕の手引きをしました。イエスさま逮捕の瞬間に、他の使徒たちは皆イエスさまを見捨てて逃げていきました。一人ペトロは大祭司の邸宅までこっそりついて行きましたが、「あなたもイエスと一緒にいた」と言われてそれを否認しました。3度もイエスさまの仲間であることを否認して、見捨てました。ただしい裁判をすべきローマ総督ポンテオ・ピラトも、群衆の暴動が起きるのが怖くてイエスさまを見捨てました。十字架につけられた時、そこを通りかかった通行人たちもイエスさまを嘲りました。隣の十字架にかかっている強盗までもがイエスさまをののしりました。
 このように、イエスさまは人々から見捨てられました。しかし、人々は見捨てても、神さまだけは見捨てないはずではなかったでしょうか。それなのに、神様までもがイエスさまをお見捨てになったという。父なる神が、神の御子をお見捨てになったのです。

神の裁き

 実は、見捨てられたどころの騒ぎではありません。45節を見ますと、昼の12時からイエスさまが息を引き取られる午後3時まで、全地が暗くなったと書かれているのです。これはいったい何か?
 日食だと思う方もおられるかも知れませんが、イエスさまが十字架にかかられたのは過越祭の時で、それは満月の頃ですから違います。日食は新月の時に起こるものです。ではいったいこの暗黒は何か?
 実はこれは旧約聖書のアモス書に預言されていることなのです。アモス書8:9(旧1440頁)「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。」‥‥ここで「その日」というのは、神の裁きの日です。世の終わりの神の裁きの日です。すなわち、イエスさまが十字架上で息を引き取られるまでの3時間に及んだ暗闇は神の裁きであったと、聖書は記しているのです!
 つまり、本当はこの時、世が終わるはずだったのです。しかし終わらなかった。それはなぜか?‥‥イエスさまが、代わりに神の裁きを受けて下さったからです。なんということでしょうか。父なる神は、御子イエスさまを見捨てたのみならず、イエスさまを裁かれたというのです! いったいなぜ!?

私たちの代わりに

 私たちはそこで、イザヤ書53章を思い出さなくてはなりません。いったいなぜ、キリストが神から見捨てられたばかりか、神の裁きを受けられたのか、ということを。
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(イザヤ書53:1〜8)「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
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 主イエス・キリストは、私たちの代わりに神の罰を受けられたのです。父なる神は、私たちを罰する代わりに御子イエスさまを罰せられたのです。私たちが見捨てられる代わりに、イエスさまが見捨てられたのです。すなわち、本当は私たちが十字架につけられて罰を受け、十字架上のイエスさまの絶叫は、本当は私たちが神の裁きを受けて絶叫するはずのものだったのです。本当は私たちが神から見捨てられるはずだったのです。しかしその私たちに代わって下さったのです。イエスさまが。

十字架と引き替えに

 イエスさまが私たちの代わりに神から見捨てられ、神の裁きを受けてくださった。それは確かなことでした。その証拠に、イエスさまが十字架上で息を引き取られた瞬間、父なる神様が行動を起こされます。
 まず、エルサレムの神殿の幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。これが最初のしるしでした。しかも決定的なしるしでした。なぜなら、この裂けた幕というのは、エルサレムの神殿の中の、聖所と至聖所を隔てる幕だからです。神殿の建物の中は、手前が聖所、奥が至聖所と呼ばれて最も神聖な場所でした。そこは年に一度、大祭司だけが入ることができ、そこで神が人とお会いになるという場所でした。
 その至聖所を隔てる幕が裂けたのです。それは、誰でも神様にお会いすることができるようになったということを意味しています。すなわちそれは、旧約聖書時代が終わったということです。イエスさまの十字架上の死によって、そのイエスさまを通して、誰でも神さまと会うことができるようになったのです。
 さらに、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という出来事が起こりました。「聖なる者」とは誰のことですか?‥‥何処かの偉人のことですか?私たちとは縁もゆかりもない立派な人のことですか?
 そうではありません。それはイエスさまを信じる人のことです。私たちは、本来は「聖なる者」ではありません。しかし、十字架でイエスさまが私たちに代わって神の裁きを受けられ、神に見捨てられたことによって、引き替えに、私たちの罪が赦され、私たちは聖なる者となるのです。イエス・キリストを信じることによって、聖なる者としていただけるのです。
 その聖なる者たちが、イエスさまが十字架で息を引き取られた直後に、生き返ったという。これは、やがて私たちキリストにすがる者たち自身が身をもって体験することを予言しているのです。そうです。私たちは、神の御子イエスさまが私たちを救うために、私たちに代わって神に見捨てられ、神の裁きを受けて下さったので、私たちは救われ、聖なる者、神の子としていただき、永遠の神の国の住人とさせていただけるのです。

見捨てられていない

 神の御子イエスさまが、私たちに代わって見捨てられて下さいました。私たちに代わって、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して下さいました。見捨てられ、裁きを受けて下さいました。ですから私たちは、イエスさまを信じるならば、絶対に神さまから見捨てられていないのです。
 私たちは時として、「神さまは私の祈りを聞いてくださらない。神様は私をお見捨てになった」‥‥などと言うことがあるのではないでしょうか。しかしそれは違っています。イエスさまが私たちの代わりに、神さまから見捨てられたのです。それと引き替えに、私たちは罪ゆるされて、救われたのです。私たちは、決して神さまから見捨てられていないのです。もう一度言います。私たちの主であり、神のひとり子であるイエスさまが私たちの代わりに見捨てられてくださったのです。だから、そのイエスさまを信じるならば、私たちが神さまから見捨てられるはずがありません。
 私たちが神様から見捨てられたのではないか、と思う時、この十字架上のイエスさまの叫びを思い出しましょう。そして、「イエスさまは私に代わって神様に見捨てられてくださった。だから私は絶対に見捨てられていない。私は祝福されている」と信じましょう。

(2011年4月17日)


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