礼拝説教 2011年4月10日

「キリストの悲しみ」
 聖書 マタイによる福音書26章36〜46

36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」




ゲッセマネ

 次週は受難週となります。それでしばらく、このマタイによる福音書から共に御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
 本日の聖書の個所は、「ゲッセマネの祈り」と言われます。イエスさまが十字架にかけられる前の晩、使徒たちと共に「最後の晩餐」を済ませられたイエスさまが、ゲッセマネと呼ばれるオリーブの木が植わった園にて祈られた場面です。しかし私たちがどんなに思いを巡らせても、神の御子のこの祈りの場面について正確に語ることができないのではないかと思われます。それほど、この場面は厳粛であり、また神秘に満ちています。そのような私たち人間の限界を認めつつ、読んでまいります。

死ぬほどの悲しみ

 十字架を予告された最後の晩餐を終え、イエスさまは使徒たちを連れて、エルサレムの町の城門から町の東に出て、オリーブ山の麓にある、このゲッセマネと呼ばれるオリーブ畑に来られました。時はユダヤ人の過越の祭りの時でしたから、満月の時でもありました。その月の明かりに照らされて、イエスさまはゲッセマネの園の中に入って行かれました。
 そして私たちがこの個所を読んで、動揺せずにおれるでしょうか。それは、まず初めに、イエスさまが「悲しみもだえ始められ」、「私は死ぬばかりに悲しい」とおっしゃったことです。この事実に私たちは衝撃を受けずにおれません。私たちが知っているイエスさまは、人となられた神の御子です。たった5つのパンと2匹の魚で男だけでも5千人もの人々を養って満腹にされた方です。人々の病を癒し、悪霊を追い出し、目の見えない人の目を開け、死人をよみがえらせ、弟子たちと共に乗った船が嵐に見舞われて弟子たちが死の恐怖を感じた時も、やおら起き上がられて風と波を叱りつけて嵐を静められた方です。そのように、圧倒的に神の御力を持っておられる方、揺るぎなく頼もしいお方‥‥それがイエスさまではなかったでしょうか。
 ところが今日の聖書個所では、イエスさまは悲しみもだえられて「私は死ぬばかりに悲しい」とおっしゃる。それを呼んで私たちは、驚き、恐れずにはおれません。イエスさまにそんなことを言われたのでは、私たちも悲しくなってしまいます。どうしたらよいか分からなくなってしまいます。

過ぎ去らせて下さい

 次に私たちが動揺するのは、イエスさまがこの祈りの中で、父なる神様に対して「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と祈られていることです。
 「杯」というのは、旧約聖書では「神の怒りの杯」を表す場合があります。つまり神の裁きです。そしてここでは十字架を指しています。神の怒りの裁きとして、イエスさまが十字架にかかられる。そのことをイエスさまはご存知でした。そしてイエスさまはご自分が十字架にかけられることを弟子たちに向かって預言してこられました。しかし今イエスさまは、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と父なる神にお願いしているのです。すなわち、十字架にかからなくても済むようにして下さい、と言っておられるのです。これにも私たちは、うろたえます。「イエスさまは死ぬのが怖くなったのだろうか?」「恐れをなしたのだろうか?」‥‥などと考えてしまいます。

神の御心を求める祈り

 そのように、私たちはこの個所を読んだ時、おもに2つの点で悩まざるをえないのです。なぜ神の御子であるイエスさまがそれほど悲しまれたのかということ、そしてなぜ十字架の回避を神に願われたのかということです。
 私たちはここで、イエスさまが何のためにこのゲッセマネにて祈りをされたのかを考えてみなければなりません。この祈りは何の祈りなのか、ということです。しかしイエスさまが何を祈られたのかを見ると、極めて短い言葉しか記録されていません。39節と42節です。最初に祈られたのが、(39節)「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。そして一度弟子の所に戻ってこられて、再び言って祈られた言葉が、(42節)「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」です。そしてまた弟子たちの所に戻って、そして三度行って祈られた時には、44節に「三度目も同じ言葉で祈られた」と書かれています。
 これは何の祈りなのか?‥‥これは、父なる神様に答えを求める祈りです。十字架という神の裁きの杯を、本当に飲むべきなのかどうなのか、父なる神に答えを求めて祈っておられる祈りです。
 祈りというと、神様にお願いすることばかりが祈りであると思っておられる方もいますが、キリスト教の祈りはそうではありません。祈りには、おもに4つの祈りがあります。
 一つは、神様に祈ると言えば教えられなくても知っている「願い」を申し上げるという祈りです。自分のこと、隣人のことについて願いを祈る祈りです。
 二つ目は、「悔い改め」の祈りです。神様に対して罪を認め、罪を告白するのです。
 三つ目は、「賛美」と「感謝」の祈りです。
 そして四つ目は、「神の御心を問う祈り」です。自分がどうすべきか、神の御心を尋ねて問うのです。
 聖書を読んでいると、そのような祈りの種類があることが分かります。そして最後の4つ目の「神の御心を問う祈り」を、クリスチャンでも忘れやすいのです。「神様、私の願いを聞いてください。こうしてください。ああしてください」と祈ることは大切なことです。私たちの神様は全能の神さまですから、何でもお願いするのがよいのです。しかし同時に忘れてはならないのは、神の御心を尋ねる祈りです。「神様、私はどうすればよいのでしょうか?教えて下さい。」という祈りです。それは、神様の御心に自分は従いますから、どうか私がどうしたらよいかを教えて下さい、と尋ねる祈りです。すなわち、自分が神様に従うことを前提にして祈る祈りです。
 イエスさまがここで祈られたのは、そのような祈りです。すなわち、イエスさまは神の御心に従うことを前提に、本当に十字架という神の差し出した杯を受けるべきなのかどうか、神の御心を尋ねて答えを求めて祈っておられるのです。

私たちのための悲しみ

 そして私たちは、イエスさまがかけられる十字架が何のためであるのかをあらためて考えてみなければなりません。すると、イエスさまがなぜ十字架にかかられるのかと言えば、それは神の怒りの杯、すなわち神の罰を私たちに代わって受けるためです。本当は、神に背いてきた私たちが、神の怒りの罰を受けて死ななければなりませんでした。すなわち、言い換えれば、本当は私たちが十字架につけられて死ななければならなかったのです。
 ですからこのゲッセマネの祈りのイエスさまの悲しみは、「私たちが、神の罰を受けて死ななければならない」ということの悲しみであると言えます。それほど私たちの罪は大きく、救いがたいということへの悲しみであると言えます。それゆえこのイエスさまの悲しみは、私たちに対する悲しみです。ご自分のことで悲しんでおられるのではない。私たちが死ななければならない、そのことへの悲しみです。そしてその代わりにイエスさまが死なれるのです。

父なる神の答え

 さて、イエスさまの祈りの答えは、父なる神様からあったのでしょうか?‥‥聖書には、神様が答えをおっしゃったということは書かれていません。その代わりに、眠りこけている弟子たちの姿が描かれています。祈られる前にイエスさまが「わたしと共に目をさましていなさい」とおっしゃったのに、1時間祈ってイエスさまが弟子たちの所に戻られると、弟子たちは眠っていました。疲れていたのでしょうか。そして再びイエスさまが行って祈られ、そして戻ってこられるとまた弟子たちは眠っていた。3度目も同じでした。
 その中でイエスさまがおっしゃっておられます。42節です。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。何度起こしてもまた眠っている弟子たちの姿。これが父なる神様が示された答えではなかったでしょうか。弟子たちの心が弱いのではないのです。精神が弱いのではないのです。心は燃えているんですが、肉体が弱いのです。そしてこれこそが罪の本質なのです。
 例えば、私はむかし、学校のPTAの役員をしたことがあります。そうすると、PTA主催で親のための教育講演会をいたします。子育ての参考になるように、教育の専門家の方を招いて講演をしていただく。すると講師の先生方は、まことに素晴らしいお話をなさるのですね。それらの先生の言われる通りに子育てをすれば、まことに素晴らしい子供が育つように感じられるのです。それで親たちは感動して、次の日からその通り実践して子供を育てようとする。しかし講師の先生のおっしゃった通りにはできないのですね。親は自分という人間が、講師の先生がおっしゃった通りにできるような立派な親ではないことに気がつくのです。それで落ち込んでしまって、そんな話しなら聞かないほうがよかった、ということになる。
 心は熱していても、肉体が弱いのです。私たちが肉体をもっているということ。それに引きずられるのです。この大震災の中で「買いだめをしてはいけない」ということは分かっている。しかし、とりあえず我が身が心配であるということで、買いだめをする。我先に、となるわけです。これも私たちが肉の体を持っているからです。
 使徒パウロがローマの信徒への手紙で書いています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。心は熱していても、肉体が弱い。それゆえ神に従うことができない。それが罪というものです。使徒ペトロが、このゲッセマネに来る直前に「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言った、その舌の根も乾かないうちに、主イエスを見捨てて裏切った。それもまた、心は熱しているが肉体が弱い、そこに表されている罪のゆえです。
 わずか1時間でも、イエスさまと共に目を覚まして祈っていることのできない弟子たちの姿をご覧になった時、そのような人間を救うためには、神の御子が十字架にかかって代わりに神の罰を受けて死ぬしかないという神の答えの一つをいただいたのだと思います。

罪からの救い

 それゆえ、イエスさまの死ぬほどの悲しみと、この3時間に及ぶ神への問いかけの必死の祈りは、私たちへの愛のゆえであることが分かります。私たちは、なかなか「罪」というものが分かりません。しかし、神の御子イエスさまがここまで悲しまれ、苦しまれるお姿を見て、逆に、それほどまでに私たちの罪は大きいものであることを知らされるのです。
 ある洗礼志願者の準備会の時のことです。志願者は30代の女性の方でした。なぜ洗礼を受けようと思ったのかというと、「素直な気持ちで信じようと思ったから」ということでした。まことに幼子のように素直に信じようとされました。そして彼女が質問をいたしました。それは「罪というものがよく分からないのですが」という質問でした。それに対して私は、私も信仰告白をする時にそうであったことを思い出しながら言いました。「それは信仰生活を続けていくうちに、だんだん分かってくるものですよ」と。
 実際その通りであると思います。信仰生活を続けていくと、次第に私たちは自分がいかに罪人であるかということを知っていきます。もしそれだけでおしまいですと、信仰生活など無意味だということになります。信仰するほどに自分が罪人であることがよく分かっていくだけならば、信じないほうがマシです。しかし信仰生活を続けていくと、自分がいかにひどい罪人であるかが分かってくるだけではなく、そんな私を救うために十字架にかかって下さったイエスさまの愛が、反比例して分かってくる。私たちが罪人であることを知れば知るほど、そこにイエスさまの救いの尊さと喜びと平安が増し加わってきます。
 心は燃えても肉体が弱い、そのためにどうにもこうにも救いがたい私たちを救う。それはただ神の御子であるイエスさまだけができることです。その私たちを救うために、私たちの罪を悲しんで下さり、苦闘して祈って下さった。そして十字架へ向かって行かれたイエスさま。その愛の大きさがひしひしと伝わってくるのが今日の個所です。

(2011年4月10日)


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