礼拝説教 2011年4月3日

「主が建てられる家」
 聖書 詩編127:1

主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。

 聖書 フィリピの信徒への手紙2:12〜18

12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
6 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。




ローズンゲン

 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。」聖書はそのように私たちに告げています。
 本日、私のこの教会の牧師としての最初の聖日礼拝説教の個所として、どの個所を選ぼうかと考えました。しかしなかなか聖書個所を選ぶというのは難しいものです。人間の先入観が入ってしまってはよろしくないと思うからです。そこで、『ローズンゲン』によって聖句を選ぶことにいたしました。『ローズンゲン』をご存じない方もおられるかも知れませんので、簡単に説明いたします。『ローズンゲン』は日本名では『日々の聖句』と呼ばれている小さな赤い本です。毎日聖書個所が、旧約から1個所、新約から1個所、たいてい1節ずつ記されています。1節しか書かれていないということに不思議に思われる方もいるかも知れませんが、その1節はくじ引きによって選ばれたものなのです。
 この『ローズンゲン』は、ドイツのヘルンフート兄弟団という信仰共同体から発行されています。『ローズンゲン』とは、「合い言葉」とか「くじ引き」という意味で、ヘルンフート兄弟団の間で、毎日を元気よく生きるための合い言葉として聖書の言葉が用いられたことに由来しています。そして、1年間の毎日の聖書の言葉を「くじ引き」によって決められるのです。膨大な旧約聖書の中から1節がくじによって選ばれ、そしてそれに対応する新約聖書の聖句が選ばれるのです。
 「くじ」というと、くだらないと思われる方もいるかも知れませんが、聖書を読むと、くじはとても重要な時に行われています。例えば、旧約聖書ではヨシュア記の、イスラエルの各部族にどの土地を分配するかという重要な時に、くじ引きによって決められています。そして新約では使徒言行録で、イスカリオテのユダが自殺をして11人となってしまった使徒を補充する時に、兄弟姉妹たちが御心を示して下さるように祈ってくじを引き、マティアに当たりました。そうしてマティアが使徒として補充されました。そのように、皆が一致して神様に祈ってくじを引くということによって、神様の御心を尋ねるということが出て来ます。
 「ローズンゲン」は、今や世界中のキリスト者たちによって愛用され、毎日読まれているのです。そして私も利用していて、本当に時にかなった御言葉が選ばれるなあ、という経験を時々しています。例えば、この東日本大震災のあった3月11日のすぐ後の聖日、3月13日(日)の聖句は次の言葉でした。‥‥「お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。」(エゼキエル36:36)
 大きな励ましを与えられました。そして必ず主が復興を助けて下さることを信じることができたのです。そしてその「ローズンゲン」が本日4月3日の聖句として選んでいるのが、今日読んだ詩編127:1と、それに対応しているとして選ばれた新約のフィリピの信徒への手紙2:13です。

主が建てられる家

 まずくじ引きによって選ばれた詩編127:1です。この前半の言葉が選ばれています。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。」‥‥神さまが家を建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい、意味がないというのです。
 さてここで、「主ご自身が家を建てる」とはどういう事でしょうか? まさか主なる神ご自身が現れて、大工仕事をされるということではないでしょう。すると家を建てるのは、やはり人間に違いありません。具体的には人間が家を建てるのだけれども、しかし「主ご自身が家を建てる」ということになる。そうすると、同じ人間が建てた家でも、「主ご自身が建てた家」があり、一方では、そうではない家がある、ということになります。いったいどう違うのでしょうか?
 むかし加藤常昭先生が言っておられたことを思い出します。加藤先生がドイツにおられた時、ドイツの牧師に、「日本にはクリスチャンが1%しかいないそうじゃないか」と言ってからかわれたことがあったそうです。それで加藤先生はちょっとムッとして、言い返したそうです。「ドイツでは、クリスチャンの1%しか礼拝に来ないじゃないか」と。ドイツには、それこそ石造りの高い塔を持った立派な教会堂がたくさんある。しかしその立派な建物での礼拝は、閑古鳥が鳴いているという。‥‥これではたしかに、むなしいものがあります。
 神殿は「祈りの家」と呼ばれました。そのエルサレムの神殿は、イエスさまの時代には、それはそれは立派な建物が建っていました。大理石を積み上げられた建物、金箔の貼られた屋根や柱は、日光を受けて燦然と輝いていたそうです。ある日、その神殿の境内で、イエスさまの弟子がイエスさまに「先生、ご覧下さい。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう」(マルコ13:1)と言いました。それに対してイエスさまは、神殿の崩壊を預言されました。そして実際、やがてユダヤ人が反乱をローマ帝国に対して起こし、それが鎮圧されて、エルサレムの神殿は破壊され、町も破壊されました。イエスさまの予告通りとなったのです。
 一方、最初の頃の教会はどうでしょうか。ペンテコステによって教会が誕生しましたが、その時の教会は教会堂という建物はありませんでした。普通の民家に人々がぎっしり集まって祈り、礼拝したのです。しかし空しくありませんでした。空しく無いどころか、喜び、感謝して主を礼拝していました。多くの奇跡が起こりました。そして世界宣教へと出かけて行きました。
 なぜこちらは、立派な建物がないにもかかわらず空しくなかったのでしょうか?喜びと感謝が満ちていたのでしょうか?‥‥それは、こちらには聖霊がおられたからです。生きておられる神さまが共におられたからです。
 そのようにしてみると、「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」という御言葉は、そこに主イエスご自身がおられるかどうか、聖霊なる神様がおられるかどうか、それによって決まると言えるでしょう。神殿や教会というものは、主を礼拝するために建てられたはずです。にもかかわらず、そこに主がおられないとなれば、それは全く空しいものとなってしまいます。生きて働きたもう主、すなわち聖霊なる神様が共におられてこそ、その建物を建てた目的が果たされるということになります。建物を建てた、ということになります。

自分という家を建てる

 今日の聖書の言葉は、建物のことだけを言っているのではありません。「ローズンゲン」の新約のほうの聖書個所は、フィリピの信徒への手紙2章13節だけですが、今日はその前後も合わせて読んでいただきました。12節に「従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と述べられています。
 この「救いを達成する」とはどういう事でしょうか? 私たちは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたことによって既に救われたのではないでしょうか?‥‥たしかにその通りです。罪を赦されて、神の子とされたという点では、既に救われたのです。しかし一方、救われて神の子とされたのに、実際の自分はどうかというと、小さな事で怒ったり、喜びや平安が少なく、不平不満ばかりを言っている‥‥いつも神様に感謝して喜んでいるどころか、神さまのことを忘れて、文句ばかり言っている。心配が絶えない‥‥そんな自分がいるわけです。救われて神の子とされたのだけれども、中身は神の子らしくない。
 例えば、どんなに悪い子であっても我が子は我が子です。しかし悪い子供のままで良いと思う親はいないでしょう。良い子になってほしいと思うはずです。成長してほしいと思うはずです。神さまも同じです。イエス・キリストを信じることによって、神の子となった。神さまから見たら、私たちも我が子になったのです。しかし同時に神さまは、その我が子である私たちが、悪いままで良いとは思われない。成長してほしいと願っておられるのです。
 しかし私たちは、自分で自分を変える力がありません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16-18)と言われても、できない自分があります。三日と続かない。自分には自分をどうすることもできないのです。
 では絶望かと言えば、そうではない。神さまがおられるからです。聖霊なる神様がおられる。本日「ローズンゲン」が挙げた新約の聖句の13節です。=「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」 この「あなたがたの内に働いて」おられる神とはどなたですか?‥‥聖霊です。主イエスを信じた者には聖霊が与えられ、私たちの内に働いておられる。その神さまが私たちを変えていってくださる。成長させていって下さるのです。自分で変わるのではありません。聖霊なる神様が変えていってくださるのです。

主が変えてくださる

 あるご婦人がいました。彼女は70歳を超えていました。彼女は、人間的には、だれからも好かれるというタイプではありませんでした。言ってみれば、「この人のお嫁さんはたいへんだろうなあ」とだれもが思うような、そんな人でした。つまり、一言も二言も多い、うるさ型だったのです。そしてそれは教会でも同じでした。牧師にも遠慮なく注文を付ける。教会員の批判も平気でする。そのために、何人もの人が傷つきました。プライドの高い人でした。
 そんな彼女が、ある時、片方の目が見えなくなってきました。お見舞いすると、布団に寝ておられました。すると彼女は、自分の不安な気持ちを正直に述べられました。手術に対する不安、そして視力を失うことになるかもしれないという不安が大きく彼女の心を覆っていたのです。その時彼女は、手を伸ばし私の手を握りました。そして、「先生、祈ってください」と、すがるように言ったのです。私は祈りました。心から祈りました。
 結局手術はうまくいきませんでした。視力は回復しなかったのです。しかし、実は、もう一つの手術を神様はなさっていたのです。それは彼女の心の手術でした。彼女が変わったのはそれからでした。あれほどうるさ型でならし、不平や小言を絶やさなかったような人が、大きく変えられたのです。そのような不平や小言を彼女の口から聞くことは、次第になくなりました。それに変わって、「感謝です」という言葉をいつも聞くようになったのです。私は、目を見張る思いでした。そして、前よりも悪くなった目を凝らして、前よりもよく聖書を読むようになった。大きな聖書に、大きな拡大鏡をあてて、いっしょうけんめい読むのです。彼女の変わり様は、だれもが驚くほどでした。そして祈りの時は、自分がいかに傲慢であったかということをさえ告白するようになった。そのへりくだった、幼子のような祈りは、共に祈るものの胸を打つほどでした。
 おぼろにしか見えない目で、できる奉仕を一生懸命しようとする。だれもが、持ち上げはするが、早くこの人の前から去りたい、と思うような人だった彼女が、いつのまにか、だれもが「いつまでもこの人と共にいたい」と思うような人に変えられていた。奇跡でした。イエスさまの御業でした。目が見えるようになる以上の奇跡を私は見たのです。年令は関係ありません。
 彼女に起こった奇跡は、あの幼子のように、牧師の手を握りしめ、「祈ってください」と頼んだあのときから始まったと思うのです。プライドの高かったこの人が、それをかなぐり捨てる時が来た。そして、へりくだって、叫んだのです。そして主は、それに確かに答えてくださいました。
 (フィリピ2:13)「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。その神さまによって、私たちが自分自身という「家」を建てていただくのです。
 そのようにして主は、家を建て、教会を建て、私たちを建ててくださるのです。空しいものとしてではなく、喜ばしいものとして建ててくださるのです。その主の御業を共に見て参りましょう。

(2011年4月3日)


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