有 名 な 聖 書 の こ と ば


ことわざや名言にもなっている、聖書の中の有名な言葉について解説します。



「人はパンのみにて生くるにあらず。」 (マタイ福音書4:4、ルカ福音書4:4) 
   この言葉は、「人の生くるはパンのみによるにあらず」(現行文語訳聖書)とも訳されていますが、いずれにしろ文語体です。口語訳では「人はパンだけで生きるものではない」(新共同訳聖書)となっています。文語体のほうが何か重みを感じますね。
 さて、この言葉は、イエスさまが世の中に神の国の福音を宣べ伝える前に、荒野に行かれて40日間の断食をなさったできごとの中で出てきます。そこで悪魔がイエスさまに語りかけて、神に従う道を歩ませまいと働きかけました。その中で、悪魔はイエスさまに「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と誘ったのです。40日間の断食といえば、ほとんど人間の限界に近い断食です。食べなければ死んでしまうような極限状態です。しかし荒野には何も生えておらず、もちろん人もいないし店もありません。しかし石ころならゴロゴロしています。「あなたが神の子ならば、この石をパンに変えることは朝飯前でしょう。そうやって食べたらどうですか」‥‥と悪魔はイエスさまにささやいたのです。
 なるほど、と思わせます。イエスさまが神の子であるならば、本当にそうすれば良いように思われます。しかしここに悪魔の大きなワナがありました。もし本当に、イエスさまが石をパンに変えて食べて生き延びたとしたら、イエスさまという方は我々とは縁遠い方だということになるでしょう。わたしたちは、石をパンに変えることができないのですから。
 この悪魔の誘惑に対して、イエスさまは標記の言葉をおっしゃったのです。そしてこれは旧約聖書の言葉の引用です。旧約聖書の申命記8章3節にこのように書かれています。‥‥「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
 まだ解説は途中ですが、長くなりましたので、結論にいきます。標記の格言は、私たちを生かしてくださるのは神さまであり、その神さまの言葉に従った時に、私たちが生きていくために必要なものは神さまがちゃんと備えてくださる‥‥というのがもともとの意味です。一般に言われている、「人間というものは食べたり飲んだりすることだけで生きるものではなく、文化的・精神的なことを目的として生きるものである」という解釈は、ちょっと誤解であるということになりますね。

「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる。」 (箴言24:16) 
   これは私は、「七転び八起き」ということわざのルーツであると思っていますが、違うでしょうか。上記の聖句は新共同訳聖書では「神に従う人は七度倒れても起き上がる」と訳されています。聖書においては、「正しい人」=「神に従う人」ですから、そのように訳しているのでしょう。七度も転んだら、さすがに落ち込み、立ち上がって前向きに生きる気力もなくなりそうですが、神さまが助けてくださるから、また希望を持っておき上がることができるという意味です。

「剣を取る者は、剣で滅びる」 (マタイ福音書26:52) 
   暴力や武力によって解決をすることを否定する言葉ですね。歴史を見ても、武力で次々と諸国を制圧した国が武力によって滅ぼされたということが繰り返されています。また、暴力で人を屈服させていた人が、暴力によってひどい目に遭うということがあるものです。
 聖書では、イエスさまがイエスさまを憎む者たちの手によって、捕らえられようとする時に、この言葉が語られました。イエスさまを捕らえようとする人々に向かって、イエスさまの弟子のペテロが剣を抜いて斬りつけたのです。それに対してイエスさまが、標記のように語られたのです。そしてイエスさまは、従順に捕らえられ、十字架へとかけられていきました。これは、一見イエスさまの敗北のように見えました。しかしその十字架にかけられて、死んだイエスさまが、三日目に墓からよみがえったことによって、勝利を得たのであることが明らかとなったのです。暴力に暴力で対抗するのではなく、全能の力を持つ神さまにお任せするよう、招く言葉です。

「目からウロコ」 (使徒行伝9:18) 
   一般には、今まで分からなかったことが、すっきりと分かったり、迷い悩んでいたことの解決が与えられたりしたような時に使われる言葉です。これも聖書から出たことわざなんですね。
 正確に言うと、「目からうろこ」ではなくて、「目からうろこのような物」なんですが。キリスト教会を目に敵にして、激しく迫害していたサウロ(パウロ)という人が、路上で天から光の中に現れたキリストと出会うのです。そして目が見えなくなってしまいました。その後、サウロのところに、キリスト教会のアナニアという人が来て、イエスさまの名によってサウロの上に手を置くと、「たちまち目からうろこのような物が落ち、サウロは元通り見えるようになった」(使徒9:18)とあります。そして、今までキリスト教会を迫害していたサウロが、180度人生の転換をして、キリストの伝道者となりました。サウロは、キリストと出会うことによって、今までの自分の過ちに気がつき、目からうろこが落ちて、新しい生き方へと変えられた、ということになりますね。

「ハレルヤ」 (詩編106:1、150:1、黙示録19:1、など) 
   「ハレルヤ」という言葉は、ゴルペルはもちろんのこと、キリスト教の歌ではなくても、ポップスなどのいろいろな歌でも使われるようになりました。「ハレルヤ」とは、「主(神)をほめたたえよ」という意味のヘブライ語です。
 主をほめたたえる。これは聖書が指し示している、わたしたちがするべきことです。神に感謝をし、祈りをする。神をほめたたえて賛美を歌う。神をほめたたえて礼拝する。それが私たちのなすべきことであることを、聖書は教えています。神が、私たち人間が、神をほめたたえて、神から力を与えられ、感謝して生きること。それが神の願いだからです。


「豚に真珠」 (マタイによる福音書7:6) 
   これは「猫に小判」と並んで、有名なことわざになっています。聖書原文では、「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」となっています。
 聖書を犬に与えても読んで悟ることができません。豚に真珠のような高価なものを与えても、その値打ちを理解することができません。そのように、人が犬や豚のような状態になっている時に、聖書の教えを説いてもムダであるということになります。このような話を聞くと、「豚とはあの人のことだ」と、他人を見下してしまいがちになります。しかしまさに、そのように他人を見下す、その心が豚のような状態なのです。ですからこの言葉は、他人を裁くための言葉ではなく、自分を省みるための言葉なのです。


「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。」(マタイによる福音書6:34)
 イエス・キリストの「山上の説教」と呼ばれる有名な説教の中の言葉です。いろいろな心配事があります。お得意さんとのこと、職場や家庭内の人間関係のこと、やらなければならない仕事のこと、経済的なこと‥‥ストレスがたまります。生きる希望がなくなってしまいます。このキリストの言葉は、あなたが心配しなくても、ちゃんと神様が心配していて下さると言うのです。神様は、1羽の鳥さえも、自然の中で養っていて下さる。たった1羽の鳥でも、心配して下さる神様は、あなたのことも心配して下さるし、生きていけるように道を用意していて下さるというのです。


「敵を愛し、迫害するもののために祈れ。」(マタイによる福音書5:44)
 たとえば「世界中の人を愛する」と言うことは簡単なことかもしれません。自分に直接関係のない人を愛するのですから。しかし「あなたの敵、あなたにいやなことをする人、いつもあなたを困らせる人、あなたをひどい目に合わせる人を愛しなさい。」と言われたら、簡単なことではないのではないでしょうか。その憎い人のことを思い出すと、とても「愛する」ことなどできません。無理です。しかしこの言葉は、天の父なる神さまは、いやな人でも憎い人にも、雨を降らせ、太陽を昇らせているというのです。この言葉は、自分であなたの敵に復讐したり、仕返しをしたりしないで、神さまに任せなさい、ということです。神様がちゃんと良いようにして下さる。だから、あなたはあなたの敵に親切にしてあげればいいのだ、というのです。


「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネによる福音書12:24)
 もともとは、キリスト・イエスが十字架に向かっていくときの言葉です。イエスさまが十字架にかかる前は、誰ひとりとしてその本当の意味を理解しませんでした。誰も分からなかったのです。しかし、イエスさまはそういう無理解の中を、十字架へと向かいました。そして十字架でイエスさまが死ぬことによって、初めて豊かな実を結ぶことになると言うのです。十字架でのキリストの死によって、逆に多くの人を救い、生かすことになる。そのキリストの十字架の結末のことを言っているのです。それが転じて、ある未開拓の分野の目的のために生涯をささげ、生前は理解されないままに終わったが、後にそれが評価されて、多くの人々に影響を与えることを言うようになりました。


「目には目、歯には歯」(申命記19:21、出エジプト記21:24、レビ記24:21)
 旧約聖書の「モーセの律法」と呼ばれるものの中の言葉です。この意味は、誰かと争って相手を傷つけた時に、相手が傷ついたのと同じだけのダメージを自分も負わなければならないというものです。つまり、相手の「目」に傷を負わせたなら、傷を負わせた方の目を同様に傷つける。またそれが、相手の歯を折ったならば、折った人の歯を折る、というものです。そういう刑事罰が課せられたのです。一見残酷なようですが、よく考えると、それ以上の復讐をさせないと言う点では、よくできている刑法だということもできます。つまり、目を傷つけられたからといって、相手を殺してしまってはならないのです。
 さて、この刑法について、イエス・キリストは次のようにおっしゃいました。"『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。"(マタイ5:38-40)。キリストは、復讐をやめて、かえって相手によくしてやれというのです。そうして、自分で復讐しないで、復讐は神に任せるべきことを説きました。こうして、人が憎しみから解放される道を開いたのです。


「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」(マタイによる福音書7:7)
 文語聖書の「求めよ、さらば与えられん」という言葉のほうが有名でしょうね。
 この言葉には続きがあります。"求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。"
 求めても与えられないことが、この世の中には多いものです。しかし天の父なる神さまはそうではないというのです。神に向かって求めれば与えられるし、捜すものは見出すし、門をたたく者は開けてもらえるというのです。しかも「すべて」の人が。不思議な感じがします。もちろん、神さまというものが、何でも望みが叶う魔法のランプのような方であるというのではありません。それは我が子を本当に愛する父のように、「良いものを」くださるのです。子を愛する親は、子に与えてはいけない物を知っています。しかしその子にとって本当に必要な、「良いもの」は必ず与えて下さると約束しているのです。




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